第18話 まちがえた
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第18話 まちがえた
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◇
十二月の日曜。空っぽの部屋。
窓の光は、さっきより、少し傾いていた。
柏木先生は、床に座ったまま、動かなかった。
コートの肩に、埃みたいな光の粒が、乗っていた。
「……なぜ、彼女が、私に謝るんだ」
その問いに、誰も答えられなかった。
部屋の冷たさが、じわじわと、背中から上ってきた。
俺は、五百旗頭を見た。
五百旗頭は、じっと、床を見ていた。テープの線を。
何かを、考えている顔だった。
◇
「――先生」
やがて、五百旗頭が言った。
「なんだい」
「ひとつ、確認させてください」
「ああ」
「あの日」五百旗頭は言った。「先生が来なかったことを、五人は知っていましたか」
……。
「……どういう意味だ」
「言葉通りです」五百旗頭は言った。「先生が欠席することを、事前に伝えていましたか」
柏木先生は、少し黙った。
それから、言った。
「……伝えていない」
「連絡は」
「していない」柏木先生は言った。「――当日、直前に、行かないと決めた」
「では」五百旗頭は言った。「五人は、先生が来ると思って、待っていたことになります」
……。
心臓が、嫌な音を立てた。
◇
「――待っていた」
柏木先生が、繰り返した。
「はい」五百旗頭は言った。「そして、来なかった」
「……」
「五人は、どう思ったでしょうか」五百旗頭は言った。「『柏木は、まだ来ない』『遅れているのだろう』」
「……」
「時間が経つ」五百旗頭は言った。「それでも来ない。……そして、扉が閉まった」
……。
部屋が、暗く感じた。
窓の光は変わっていないのに。
空気だけが、重くなった気がした。
「そのとき、五人は、こう考えたはずです」五百旗頭は言った。「――『柏木は、外にいる』」
……。
ぞ、と、した。
◇
「……外に?」
「はい」五百旗頭は言った。「遅れて来た柏木先生が、扉の外にいる。……そう考えるのが、自然です」
「……」
「だから」五百旗頭は言った。「――助けを呼ばなかったのではないでしょうか」
……。
……あ。
「柏木が外にいるなら、そのうち気づく」俺は言った。「扉が閉まってることに」
「はい」五百旗頭は頷いた。「そして、開けてくれる。あるいは、人を呼んでくれる」
「だから、待ってた」
「そう考えれば」五百旗頭は言った。「――五十時間、何もしなかった理由が、説明できます」
◇
柏木先生は、動かなかった。
顔が、白かった。
「……待って、いたのか」
「可能性です」五百旗頭は言った。「証拠はありません」
「……」
「ですが」五百旗頭は言った。「もしそうなら」
五百旗頭は、柏木先生を見た。
「――手記の意味も、変わります」
◇
「……どういうことだ」
「手記は、誰かに読ませるために書かれています」五百旗頭は言った。「文体が、報告書だからです」
「……ああ」
「では、誰に読ませるつもりだったのか」五百旗頭は言った。「――『外にいるはずの人』です」
……。
「彼女は、先生が外にいると思っていた」五百旗頭は言った。「だから、書いた」
「……」
「『今、何が起きているか』を」五百旗頭は言った。「――外にいる先生に、伝えるために」
……。
柏木先生の、手が、震えていた。
膝の上に置いた、その手が。
◇
「……そんな」
「先生」五百旗頭は言った。「彼女は、最後まで、待っていました」
「……」
「だから、順序を書いたのです」五百旗頭は言った。「『誰が、どうなったか』を。……外の人が、状況を把握できるように」
……。
「見えなくても、書けた理由も、そこにあります」五百旗頭は言った。「――正確である必要は、なかった」
「……え」
「彼女は、記録者ではありません」五百旗頭は言った。「報告者です。……『たぶん、こうなっている』と、伝えようとしただけです」
……。
……ああ。
そうか。
だから。
順序が、解剖と合わない。
見えていないから。
でも、伝えなければならなかったから。
……推測で、書いた。
◇
「……じゃあ」俺は言った。「あの、最後の一文は」
「はい」五百旗頭は言った。「――『死んだと思っていた教師が、立ち上がった』」
「……」
「あれは、誤認です」五百旗頭は言った。「暗闇で。出血していて。……朦朧としていた」
「……ああ」
「そして、彼女は、期待していました」五百旗頭は言った。「――『そのうち、誰かが来る』と」
……。
……あ。
「だから」五百旗頭は言った。「誰かが立ち上がったとき」
……。
心臓が、冷たくなった。
「――『来てくれた』と、思ったのではないでしょうか」
◇
……。
部屋が、静かだった。
誰も、動かなかった。
窓の外の、遠い風の音だけが、あった。
「……『どうして、あなたが、ここにいるの』」
俺は、つぶやいていた。
稽古で、ミライが入れた台詞。
東海林が、「違う」と言った台詞。
……違う。
その台詞じゃない。
彼女が、最後に言うはずだったのは。
疑うような、言葉じゃ、ない。
……。
もっと。
ずっと、待っていた人に、向ける言葉。
「――『やっと、来てくれた』」
……。
五百旗頭が、静かに言った。
「そうです」
◇
「……でも」
柏木先生の声が、掠れていた。
「……私は、行かなかった」
「はい」
「行かなかったんだ」柏木先生は言った。「なのに、彼女は」
……。
「……待って、いたのか」
「はい」
「……ずっと」
「……はい」
……。
柏木先生は、両手で、顔を覆った。
声は、出さなかった。
ただ、肩が、震えていた。
冷たい部屋に、その、震えだけが、あった。
◇
しばらくして。
柏木先生は、顔を上げた。
目が、赤かった。
「……それで」柏木先生は言った。「なぜ、彼女は、私に謝ったんだ」
……。
そうだ。
それが、まだ、わからない。
「『まちがえた』と、書いてあったんですよね」五百旗頭が言った。
「ああ」
「何を、間違えたのか」五百旗頭は言った。「――たぶん、これです」
五百旗頭は、言った。
「――『柏木くんが、外にいる』と、思ったこと」
……。
◇
「彼女は、最後の瞬間に、気づいたのだと思います」五百旗頭は言った。「『誰も、来ない』と」
「……」
「そして、理解した」五百旗頭は言った。「――『柏木くんは、外にいない』と」
……。
「では、なぜ来なかったのか」五百旗頭は言った。「彼女は、こう考えたのではないでしょうか」
五百旗頭は、静かに言った。
「――『わたしたちが、待っていたせいだ』」
……。
……え。
「……どういうことだ」
「もし」五百旗頭は言った。「五人が、最初から助けを呼んでいたら」
……。
……あ。
「窓を割る。叫ぶ。物を投げる」五百旗頭は言った。「――誰かが、気づいたかもしれません」
……。
「でも、彼らは、待った」五百旗頭は言った。「『柏木が来る』と信じて」
……。
「その判断が」五百旗頭は言った。「――間違いだった」
◇
……。
「だから」五百旗頭は言った。「彼女は、こう書いたのだと思います」
『ああ、そういうことだったのか。わたしは、まちがえた』
『かしわぎくんに、あやまっておいて』
……。
「――『あなたを、待っていて、ごめんなさい』」
……。
五百旗頭は、言った。
「――『あなたのせいに、していて、ごめんなさい』」
……。
部屋が、静かだった。
柏木先生は、動かなかった。
ずっと、床を見ていた。
光の四角が、その手のすぐそばまで、伸びていた。
◇
やがて。
柏木先生は、小さく、言った。
「……ばかだな」
「先生」
「ばかだ」柏木先生は言った。「――謝るのは、私だろう」
……。
「私が、行っていれば」柏木先生は言った。「彼らは、待たなかった」
「……」
「私が、来ないとわかっていれば」柏木先生は言った。「――彼らは、助けを呼んだ」
……。
「私が」柏木先生は言った。
声が、震えていた。
「――私が、行かなかったから」
……。
その声が、空っぽの部屋に、落ちて。
誰も、拾えなかった。
(第18話 了)




