美術、芸術
保健室から2階へと駆け上がり、美術室前へと走り、この後はどこへ逃げるべきかと悩みながら額を流れる汗を手の甲で拭った。
それにしても、事態は大きく変化した。
昨日はただ普通に鬼から逃げていた。
今日は学食のおばちゃんが追いかけてこないことに油断し、チャイムが合図になったのか冬里くんを捕まえた。
「気絶したり冬里くんが犠牲になったり、なんだよ」
ボソッと呟くと、春野さん?と前から声をかけられた。
上を向くと美術の美月先生がいた。
綺麗な顔で、細い首、腕、足。
白い指で筆を握っていた、なんて見とれてはいられない。
私が先生の横を通って走ろうとした時、筆で先を塞がれた。
何故、と美月先生を睨む。
美月先生は静かに目を細めて微笑んだ。
「少し美術室でお話しないかしら」
「この世界で先生は鬼です。美月先生は何を考えているのですか」
「焦っても見つからないものもあります。心を落ち着かせることは大切なことですよ」
美月先生はそう言うと筆を差し出してきた。
先生の行動に気をつけながら2本中の1本を受け取ると、美月先生は美術室の鍵を開けて室内に向かう。
長方形の木の机が6つ並び、家庭科室と同じような部屋の造りになっていた。
ただ、食器が並べてあった棚は、スケッチブックや絵の具がロッカーに積まれていた。
「春野さんは選択授業、美術じゃないわよね」
はい、と小さく返事をした。
美月先生は美術準備室へ入ると、絵の具とスケッチブックを取り出し、私の前の机に置いた。
「そこへ座って」
「なぜ」
「絵を描いてもらうからよ」
「絵?」
私が戸惑っていると、美月先生は私に構わずにバケツに水を貯め、スケッチブックの横に置いた。
「絵は苦手です」
「だから何?下手くそだって芸術よ。
ピカソの絵は綺麗だと思う?」
ピカソの絵をよく知らない私は霞がかった記憶を起こす。知らなくても予想する。
「きっと海の景色のほうが綺麗かも知れませんね」
「美術の先生だけれど私も同感よ」
美月先生が偉い人、芸術家を下手くそと言っているようにしか聞こえない。
「それでもピカソは有名じゃない。
貴女は有名になれなくても筆を走らせることは出来るわ」
何を言っているんだ、先生は。
話している内容もわからなければ、先生が私に絵を描かせたい理由もわからない。
美術室から出ようとした時、筆で背をつつかれた。
「描かなきゃ捕まえるわよ」
「それほぼ強制ですよね」
私は苦笑いしながら言った。
仕方ない。私は椅子に座り、絵の具を広げた。
暗い色から明るい色まで揃えられたチューブを眺める。
よく使うのか、赤や青は凹んでいた。
黒や紺はあまり使われないのか、または買ったばかりなのか、新しいままだ。




