第八章
「はい」
介護士長さんがお茶を出してくれた。そして私の耳元で囁く。
「美里ちゃん、休ませてるけど参ってるみたい。後で行ってあげて」
医務室から先輩が出てきて私に片手を上げる。頬にばんそうこう、右手に包帯を巻いていた。
「打ち身と擦り傷だけで大事にはならないそうだ」
「さすが悪運は強いですね」
あの状況で大事にならなかったのは奇跡だ。
「どういう意味だよ」
どかっと隣に腰を下ろし私に出されたお茶を飲み干す。
「おまえも落ち着いたか」
「なんとか」
正直微かな手の震えは止まっていない。そして心の中はまだ波打ってる。
「現場の後片付けはだいじょうぶなんですか?」
「現場で鉄道と警察の人が協力してくれてるみたいだよ。朝までに何とかしないといけないからな。……ほら、あそこに運び入れられてる」
先輩と二人して窓際に歩み寄る。深夜の暗がりの中で私たちの姿がガラスに映り、奥底に駐車場に眠る崩れたプリウスの痛々しい姿が重なる。
「何しろ深夜だからJAFもなかなかやってくれないだろう。あれから運び出すのは大変だったらしい」
ローカル線の無人駅でも現役の場所だ。破壊された車が放置されていては運行にかかわる。
「現場検証はしなくていいんですか」
「最低限度はしてるだろう。場所が場所だからとりあえず動かすのが優先だ。事件――と呼ぶべきかどうかもあれだが。近所の修理工場の人にも手伝い頼んだそうだ。今の時間じゃどこも引き取ってくれないしな、とりあえずつぐみ園に預けとくしかない」
ルーフが歪みウインドウも砕けている。引っかき傷のような赤黒い傷が走って事故車のように先頭がつぶれていた。老紳士が瀟洒に乗り込んでいた光景とは打って変わった無惨な姿だった。
「あれだけ手入れされて小奇麗だったのに……」
持ち主に似て。しかし無残な残骸と化した車を見ているとこっちの方も燒津さんも現わしてるような気がしてきた。
外は整って小洒落た感じもあるのに、傷つきそして荒んだ心の内側。傷だらけの中身。
幽霊電車――人が動かしている以上、幽霊と呼べるかは微妙だが、線路上を向かってくる焼津さんは幽鬼そのものだった。この世に生存してるはずなのにどこか朦朧とした……
そう、正体は乗用車だった。
ただ深夜の線路上に火花を上げて爆走してくる車―― あの狂気に満ちた姿は、人を襲い喰おうとするような幽霊電車と呼んでも違和感なかった。
燒津さんが線路上を車で爆走していた。都会の路線なら厳重に路線は封じられている。しかし私たちが侵入できたように管理杜撰な田舎路線だったことがそれを可能にした。
タエさんの目撃した怪物も、華ちゃんが恐怖した光も、狂気が創り出したいわば本物の幽霊だった。
「焼津さんは……」
「少し打撲があるし病院で治療してる。つぐみ園の人が事情を説明して警察の方も分かってはいるらしい。でも不法侵入とか危険行為にはあたるから落ち着いたら事情聴取はあるみたいだ」
「なるほど……ちょっとお茶をついできます」
今や先輩の湯呑みとなった分も持っていく。あの状況を思い出すだけで喉がひりひりしてくる。その場で一気に飲み干しもう一杯ついで先輩の分も淹れてテーブルに戻った。
先輩の側には介護士長さんも座っていた。
「焼津さん、命に別状は無いらしいわ」
「そうですか、頭の方は」
「混乱してるみたい。完全に〝夜バージョン〟になって」
「夜はいつもあんな感じだったんですか」
「そう。暴れて殴ったりひっかいたりもするから大変。悲鳴みたいな大声出して周りも巻き込むから。毎晩大変」
介護士長さんの表情には明らかな疲労感があった。
白髪を丁寧に撫でつけ、粋なジャケットを着こんだ温厚そうな紳士。実際に線路を爆走してる姿を見なければ私だって信じられなかっただろう。
先輩が包帯をした手で茶碗を口に運んだ。
「最初から線路の傷はおかしかった。経年劣化の傷じゃなく、不自然に細かい傷が通常の走行じゃでは破損しない場所にも付いてる。錆の剥がれた箇所は真新しい。ごく最近の傷である以上、あながち幽霊電車の話もデタラメじゃないってすぐ分かった。しかもこんな小さな無人駅だろう。そこまで擦過傷が付くのはおかしい。仮に幽霊電車を信じなくても何かが起こってると」
あの短時間でよく見ていたものだ。私と美里は同じ物を見ていたはずだが全く分からなかった。やっぱり先輩に頼んで良かったと思った。
「初めて焼津さんと会った時を覚えてるか」
「ええ、タエさんを迎えに来た時ですよね」
「あのプリウスもおかしかった。シャーシとベアリングに不自然な傷が沢山ある。外側は上手く塗装してあったが、ガードレールや壁にぶつけたような傷でもない。プリウスでそんなに悪路はいかないだろうし、あの人の様子からも若い人の暴走とは違う」
「そこまで見てたんですか」
……観察眼も段違いだった。あの一瞬で…… 私は綺麗なプリウスとしか見えず重要なサインをほとんど見落としていた。
結局見ていたのは上っ面だけだったのだ。何もかも。先輩の行動も表面の奇行としか見てなかった。
深く内面まで見れる人だけが狂気の暴走の中にある真実をつかめていた。




