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書類が書けない勇者はお断りします〜追放された受付係の新しい窓口には、今日も魔王軍が番号札を取って順番待ちをしています〜  作者: 今井 幻


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第44話「受付終了。本日の窓口はもう閉めました」

 十二番。


 番号板が切り替わると、待合椅子の三列目から小柄な老人が腰を上げた。


 杖を突きながら、アルヴェインの横を通る。


 老人の歩みが一瞬だけ鈍った。カウンター前に立ち尽くす大柄な男——かつて王都のどの広場でも歓声を浴びた"光焔の勇者"が、今は却下の控えを握りしめたまま、そこにいる。


 老人は目を逸らし、杖の音だけを残してカウンターへ進んだ。


「辺境農地転用に伴う魔獣防壁の維持申請です。えっと、様式は——」


「第七号乙の二。添付は防壁設置時の認可番号と、現行の土地台帳写しです」


 ユースの声は、十一番の時と変わらなかった。十番の時とも。九番の時とも。


 受付窓口というものは、そういう場所だ。


 誰が前に立っていようが、何が起きていようが、同じ温度で、同じ精度で回る。


 老人は、書類の束から一枚だけ抜け落ちていた台帳写しを指摘され、少し慌てた。


「あ、すみません、これかな……」


「はい。受理します」


 処理印の音。硬く、短く、正確に。


 老人が頭を下げて去る。その足音が遠ざかる間も、ユースの視線はもう次の帳票に移っていた。


 *


 アルヴェインは、動けなかった。


 カウンターから一歩だけ離れた場所に立ったまま、窓口が回るのを見ていた。


 十三番。十四番。


 商人が来た。書式に不備があり、差戻された。商人は「ありがとうございます、直してまた来ます」と頭を下げて帰った。


 十五番。


 教会からの照会担当が来た。セフィアが照合帳票を開き、三つの項目を確認し、受理印が押された。


 十六番。


 通行証の更新。ユースは申請書の裏面に目を走らせ、二カ所に赤い付箋を貼って差し戻した。申請者は付箋を見て、小さく頷いて帰った。


 どの申請者も、カウンターの横に立つアルヴェインを見た。


 見て、目を逸らした。


 同情ではなかった。哀れみでもなかった。


 窓口で却下された人間は、ここでは珍しくない。ただ、普通は帰る。帰って、書類を直して、また来る。


 帰れない人間を、彼らは知らなかった。


 *


 午後の日差しが傾き始めた頃、仮担当職員がそっとユースの視界の端に入った。


 小声で、しかし職務上の義務として。


「あの……前の申請者の方が、まだフロアに」


「承知しています」


 ユースは帳票から顔を上げなかった。


「退去命令の要件は満たしていません。公共待合空間への滞留は、閉庁時刻まで制限されません」


 仮担当職員は、それ以上何も言えなかった。


 つまり——閉庁までは、いていい。


 閉庁までは。


 *


 十七番。十八番。十九番。


 窓口は回る。


 アルヴェインは、いつの間にか待合椅子の端に座っていた。


 立っている力が、もうなかったのかもしれない。


 かつて聖剣を振るった腕が、膝の上で組まれていた。却下の控えは、もう握りしめてはいなかった。椅子の横に、紙が一枚、置かれていた。


 窓口の蛍灯が、申請者の顔も、帳票の文字も、アルヴェインの横顔も、同じ白さで照らしていた。


 *


 二十三番の処理が終わった時、セフィアが小さく身を寄せた。


「監督院から」


 封筒を一つ、カウンターの内側でユースへ渡す。


 公用の茶封筒。監督院の朱印が押されている。中身は紙一枚。


 ユースはそれを開き、目を通した。


 文面は短かった。


『世界法運用局 特別運用監督官 任命通知 ユース・グレイナー殿——』


 辞令だった。


 第三窓口の正式管轄権限、非常時裁量権、監査照会の直接起票権、上位規程への参照権限。これまで臨時だった全ての権限が、正規のものになる。


 ユースは通知を読み終え、二つに畳んで内ポケットへ入れた。


「セフィアさん」


「はい」


「隣席の配置、正式になりますか」


 セフィアは一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、帳票に視線を戻しながら答えた。


「教会側からの出向辞令は今朝付で受理済みです。——私のほうが先でした」


 その声にはいつもの上品な響きがあったが、ほんの少しだけ、語尾が跳ねていた。


 ユースは何も言わず、次の番号を表示した。


 二十四番。


 *


 午後の最終受付が近づいていた。


 待合椅子の人数が減っていく。二十六番。二十七番。


 壁に掛かった時計の針が、閉庁三十分前を指した。


 窓口の横に掲示された案内板には、いつもと同じ文面がある。


『受付は閉庁三十分前で終了いたします。番号札をお持ちでない方は、翌営業日にお越しください』


 アルヴェインの目が、その掲示を見た。


 何時間もそこに座っていたはずなのに、初めて気づいたかのように。


 仮担当職員が発券機の前に立ち、小さな札を差し込んだ。


『本日の番号札配布は終了しました』


 二十八番が呼ばれた。


 最後の申請者——砦の資材搬入に関する経路変更届——が、カウンターへ向かった。


 アルヴェインの手が、椅子の肘掛を掴んだ。立ち上がろうとしたのかもしれない。


 だが、番号札はない。申請書もない。あるのは、朝に却下された控えだけだ。


 その手は、肘掛の上で止まった。


 ユースは二十八番の帳票を確認し、処理印を押した。


「受理です。お疲れさまでした」


 二十八番が去った。


 待合椅子には、もう番号札を持った人間は一人もいなかった。


 *


 ユースは番号板の表示を消した。


 新規の呼び出しはもうない。窓口札はまだ『受付中』のまま掛かっていたが、それは閉庁時刻まで業務体制を維持するための規程上の措置にすぎなかった。


 ユースはカウンターの帳票を揃え、本日分の処理済み書類を分類し始めた。受理の束、差戻しの束、却下の束。それぞれに日付印を入れ、通し番号を確認し、所定の綴じ紐で綴じていく。


 セフィアも照合帳票の突合を始めた。教会側の照合記録と、本日受理分の認可番号を一件ずつ照らし合わせる。紙がめくれる音だけが、静かなフロアに響いた。


 仮担当職員が、待合室の椅子を一脚ずつ確認して回っていた。忘れ物がないか。汚れがないか。明日も同じように並べるために。


 その全てが、毎日繰り返されている閉庁前の風景だった。


 アルヴェインだけが、その風景に属していなかった。


 待合椅子の端に座ったまま、動かなかった。番号札を持った最後の申請者が去ってから、もう随分経っていた。周囲の椅子は空になり、仮担当職員が隣の列まで確認を終え、足音が遠ざかっても、そこにいた。


 壁の時計が、静かに時を刻んでいた。


 長針が一目盛り動く。また一目盛り。


 カウンターの中では、ユースの手が淀みなく動いていた。処理済み帳票の最終頁に確認印を入れ、翌日の受付用紙を所定の位置に置く。朱肉の蓋を閉め、処理印をケースに戻す。


 十分。十五分。


 窓の外の光が、橙から暗い紫へ変わっていった。蛍灯の白さが、それと引き換えにフロア全体を支配し始めた。


 二十分。


 セフィアが照合を終え、帳票を綴じた。最後の一冊を棚に戻す音が、妙に大きく聞こえた。


 アルヴェインは、時計を見ていた。


 針が動くのを、見ていた。


 何を待っていたのか。閉庁すれば追い出される。それは分かっていたはずだ。分かっていて、ただそこにいた。立ち上がる理由も、帰る理由も、もう持っていなかったのかもしれない。


 二十五分。


 仮担当職員が入口付近の掲示物を最終確認し、カウンターの内側へ戻ってきた。ユースへ小さく会釈する。閉庁準備完了の報告だった。


 ユースは頷き、壁の時計に目をやった。


 長針が、あと一目盛りで閉庁時刻を指す位置にあった。


 *


 時計の針が、閉庁時刻に届いた。


 音は鳴らなかった。鐘も、合図もない。長針が所定の位置へ滑り込んだだけだった。


 ユースの手が、窓口札に伸びた。


 その瞬間。


 椅子が軋んだ。


 アルヴェインが立ち上がっていた。


 待合室の端から、カウンターへ。大きな体が、空になった椅子の列の間を歩いてくる。


 番号札はない。


 申請書もない。


 あるのは——椅子の横に置き忘れたままの、朝に却下された控えだけだ。それすら、手に持ってはいなかった。


「——待ってくれ」


 声が、掠れていた。朝よりもさらに。何時間も黙っていた喉から、ようやく押し出したような音だった。


 ユースの指は、窓口札の縁に掛かったままだった。


「アルヴェイン様」


 名前を呼ばれて、アルヴェインの足が止まった。


 申請者番号ではなく、名前。


 それが——窓口の向こう側の人間として呼ばれたのではなく、ただの個人として呼ばれたのだと、気づくまでに数秒かかった。


「本日の受付は二十八番で終了しました」


 アルヴェインの唇が動いた。言葉にはならなかった。


「再申請をされる場合は、翌営業日の受付開始時刻に番号札をお取りください。必要様式は控えに記載しております」


 業務案内だった。


 一文字も、一音も、特別ではなかった。


 他の誰に対しても、同じように言う。閉庁間際に駆け込んできた商人にも、期限を一日過ぎた冒険者にも、初めて窓口に来た新人の兵士にも。


 同じ言葉で、同じ声で、同じ温度で。


 アルヴェインは——それが、一番きつかった。


 怒られるなら、まだよかった。罵られるなら、言い返せた。冷笑されるなら、意地が立った。


 でも、ユースは何もしなかった。


 窓口の外にいる一人の人間として、規程通りの案内をしただけだった。


「——俺は」


 アルヴェインの声が、割れた。


「俺は、勇者だった」


 過去形だった。


 初めてだった。アルヴェイン・クロスが、自分のことを過去形で語ったのは。


 ユースの手が、窓口札を裏返した。


『受付終了』


 白い木面に、黒い二文字。


「却下。受付終了。本日の窓口はもう閉めました」


 その声は、今日の朝と同じだった。二十八人の申請者を処理した後の声と同じだった。昨日も。一昨日も。ユースがこの窓口に座った最初の日から、おそらく何一つ変わっていない声だった。


 静かだった。


 窓口の蛍灯が消えたわけではない。仮担当職員が息を止めたわけでもない。セフィアが何かを言ったわけでもない。


 ただ、窓口が閉まった。


 それだけのことが——アルヴェインの世界で、最後の扉が閉まる音だった。


 *


 アルヴェインは、しばらくそこに立っていた。


 窓口札の『受付終了』を見つめていた。それが読めないのではなかった。読めるのに、受け入れる回路が、体のどこにも見つからなかった。


 やがて。


 かつて光焔の勇者と呼ばれた男は、カウンターから手を離した。


 振り返った。


 待合室には、もう誰もいなかった。


 椅子が並んでいるだけの空間を、アルヴェインは歩いた。靴音が広い部屋に響いた。かつて王都の広場で歓声を浴びた足が、番号札の発券機の横を通り、自動扉の前で止まった。


 扉が開いた。


 夕暮れの残照はもう消えかけていた。王都の通りに灯る街灯の光が、薄い橙色でアルヴェインの輪郭を縁取った。


 アルヴェインは振り返らなかった。


 一歩を踏み出して、出て行った。


 扉が閉まった。


 *


 閉庁後の第三窓口は、いつも静かだ。


 蛍灯が半分だけ落とされ、カウンターの上には翌日の準備帳票が整然と並ぶ。仮担当職員が最後の清掃を終え、「お疲れさまでした」と頭を下げて出ていった。


 フロアには、二人だけが残った。


 セフィアが、隣席で照合帳票の整理をしていた。紐を通し、頁番号を確認し、所定の棚へ戻す。彼女の手つきは丁寧で、正確で、淀みがなかった。


 ユースは翌日の受付準備を終えた後、一つの帳票束を手元に引き寄せた。


 神代禁則条項に関する旧記録の束だった。


 ギデオン案件の事後処理で引き出されたもので、通常なら監査局の書庫に戻される。だが照合の最終確認がまだ残っていた。


 頁を繰る。


 古い紙の匂い。活版ではなく手書き——しかも複数の筆跡が混在する、半世紀以上前の現場記録だった。


 三十七頁目で、ユースの指が止まった。


 欄外に、小さな注記があった。


 インクの色が周囲と違う。筆圧も違う。明らかに後から書き足されたものだった。


『当該条項ノ適用ハ、認可元ノ署名権限ニ遡及スル可能性アリ——更ニ上位ノ認可体系トノ接続ヲ要確認』


 ユースは、その筆跡を知っていた。


 見間違えるはずがなかった。毎晩、食卓の端で帳票を広げていた人の字だ。朝、出勤前に必ず万年筆の先を布で拭いていた人の字だ。


 母の字だった。


 そしてその横に、さらに小さく、別の筆跡で。


『確認済。接続先ハ——』


 父の字だった。


 その先は、切り取られていた。紙の端が不自然に直線で断たれている。破れたのではない。刃物で、意図的に除かれている。


 ユースの手が、帳票の上で静止した。


 長い沈黙だった。


 セフィアが気づいた。帳票を綴じる手を止めて、ユースの横顔を見た。


 何かを問いかけようとして——やめた。


 代わりに、自分の帳票に目を戻し、静かに言った。


「続きは、明日でも」


「……ええ」


 ユースはその頁に薄紙を挟み、旧記録の束を所定の位置に戻した。


 胸ポケットの万年筆に、一瞬だけ手が触れた。


 黒銀の軸が、閉庁後の薄い灯りを受けて、鈍く光っていた。


 *


 翌朝。


 蛍灯が灯る。全灯。白い光がカウンターの隅々まで均等に行き渡る。


 窓口札が裏返される。


『受付中』


 番号札の発券機が小さな音を立てて起動した。


 ユースは椅子に座り、帳票の位置を確認し、処理印の朱肉を開いた。隣席でセフィアが照合帳票を開く紙音が、いつも通りに聞こえた。


 自動扉が開いた。


 最初の申請者が入ってくる。


 商人だった。通行許可の更新。番号札を取り、椅子に座り、自分の番号が呼ばれるのを待つ。


 その後ろから、辺境砦の連絡官が入ってきた。補給経路の変更届を持っている。


 続いて、教会の照会担当。治療認可の定期照合。


 少し遅れて、見慣れた正装の影が入口に立った。魔王軍の使者だった。眷属契約の再申請書類を、丁寧に封筒へ入れて持っている。番号札を取り、勇者側の商人の二つ隣に座った。


 誰も、そのことを奇妙だとは思わなかった。


 ここではそういうものだ。


 英雄も。商人も。兵士も。魔族も。


 番号札を取り、椅子に座り、窓口が呼ぶのを待つ。


 正しいものは通る。間違っているものは止まる。


 それだけの場所が、今日も開いている。


「一番の方、どうぞ」


 ユースの声が、待合室に届いた。


 昨日と同じ声だった。


 明日もきっと、同じ声だろう。


 窓口は開いている。世界が正しく回るために。

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