第43話「却下」
朝の第三窓口は、いつも通りの空気で開いた。
帳票棚の用紙は昨夕のうちに補充してある。処理印の朱肉は乾きがないか確認済み。窓口端末の稼働確認、完了。受付番号札の初期化、完了。
ユース・グレイナーはカウンターの定位置に座り、最初の番号を呼んだ。
「一番の方、どうぞ」
辺境からの補給再認可の追完書類。不備なし。受理。
二番。教会治療網拡張に伴う地方施術所の届出変更。添付の旧届出番号に転記ミスあり。差戻し。
三番。商人組合からの通行証更新。受理。
隣席でセフィアが照合台帳をめくる音だけが、規則正しく続いている。
窓口業務とは、そういうものだ。正しいものを通し、間違っているものを止める。昨日も、今日も、明日も。
*
四番の申請者が席を立った直後だった。
待合室の空気が、わずかに変わった。
変わった、というより——止まった。隣の仮担当職員が手を止め、椅子に座っていた数人の申請者が同時に視線を動かした。
入口に、男が立っていた。
かつて英雄と呼ばれた輪郭の名残だけが、そこにあった。
髪は乱れ、外套の裾は擦り切れている。頬がこけ、目の下に濃い影が落ちていた。片手に、折り目のついた紙を一枚だけ握っている。
アルヴェイン・クロス。
ユースの手は止まらなかった。五番の番号札がカウンター脇の表示板に点灯する前に、処理中の帳票をひとつ閉じ、次の束を引き寄せた。
アルヴェインは入口で一瞬だけ足を止め、それから番号札の発券機へ向かった。
紙片が一枚、機械から吐き出される。
待合室の椅子に座る。
誰も声をかけない。
商人風の男が隣の席から一つずれた。老婦人が書類を顔の前に上げた。仮担当職員がユースの方をちらりと見たが、ユースは視線を返さなかった。
返す必要がない。あれは申請者だ。番号札を持って、順番を待っている。それだけのことだった。
「五番の方、どうぞ」
*
六番。七番。八番。
窓口の処理は止まらない。
アルヴェインの番号が何番かは、ユースは確認していない。確認する理由がない。順番が来れば呼ぶ。来なければ呼ばない。
セフィアが小さな声で「次の束、教会関連です」と告げ、照合済みの台帳を滑らせてきた。ユースは受け取り、付箋の位置を確認した。
九番の申請者——地方の鍛冶組合からの装備更新届——が受理印を押されて席を立つ。
番号表示が切り替わる。
「十番の方、どうぞ」
椅子が軋む音がした。
重い足取りが、カウンターへ近づいてくる。
ユースは顔を上げた。
目の前に、アルヴェイン・クロスが立っていた。
カウンター越しに向き合うのは、追放の朝以来だった。あの日、アルヴェインは机を叩く側にいた。今日は、番号札を握って立つ側にいる。
ユースは言った。
「ご用件と、申請書類をお出しください」
アルヴェインの喉が動いた。何かを飲み込むような、あるいは吐き出しかけて止めたような動きだった。
折り目のついた紙が、カウンターの上に置かれた。
異議申立書、様式第十二号甲。
「——頼む」
声は低かった。かつて中央庁の廊下を震わせた怒号の面影はなく、喉の奥から絞り出すような響きだった。
「戻ってくれ。条件は何でも飲む」
ユースは申請書を手に取った。
*
紙を広げた瞬間、すべてが見えた。
申立人氏名欄。楷書で書かれた名前だけは読める。ただし字画が一箇所潰れていた。
処分通知番号。数字は埋まっている。が、末尾の枝番が抜けている。
処分年月日。記載あり。
申立事由欄。
白紙。
添付書類一覧。
白紙。
申立人署名欄。署名はあるが、押印がない。
ユースは書類をカウンターに置いた。表面を上にして、アルヴェインから読める向きに。
「セフィアさん」
「はい」
セフィアが隣席から身を寄せ、書類に目を落とした。
一拍。
それだけで十分だったらしい。セフィアは柔らかく微笑んだ。窓口業務のときの、申請者へ向ける丁寧な笑みだった。
「まず、処分通知番号の枝番が未記入です。庶務課で様式第四号丁により写しの交付を受け、正確な番号をご転記ください」
アルヴェインの眉が動いた。
「次に、申立事由欄が未記入です。四百字以内で、処分に対する具体的な異議内容を記載する必要があります」
「それは——」
「また、添付書類として処分通知書の写し、申立事由書、身分証明の写しが必要ですが、いずれも未添付です」
セフィアの声は穏やかなまま、一つずつ、壁を積んでいく。
「最後に、申立人署名欄に押印がございません。個人印をお持ちでない場合は、届出済みの拇印による代替が可能ですが、届出自体がお済みでしょうか」
沈黙が落ちた。
待合室の空気が凍っている。十一番の番号札を持った女性が、書類を膝の上で握り直した。仮担当職員は壁際で微動だにしない。
アルヴェインの唇が開いた。閉じた。また開いた。
「……書き方が、わからなかった」
その一言が、待合室に落ちた。
かつて「書類なんて誰がやっても同じだ」と言い放った男の口から。
セフィアは笑みを崩さなかった。
「謝罪にも様式が必要なのですよ、元・勇者様」
声は甘く、刃は深かった。
*
アルヴェインの膝が折れた。
カウンターの前で、床に両手をついた。額を石畳に押しつけた。
「頼む——俺が悪かった。全部、俺が間違っていた。だから——」
待合室の誰かが息を詰めた。
「だから、もう一度だけ——」
ユースは、土下座する男を見下ろしていた。
何も感じていないわけではなかった。ただ、窓口の向こう側で誰が何をしようと、処理の基準は変わらない。泣いても怒鳴っても、書類が整っていなければ通せない。整っていれば通す。
それが窓口だ。
「アルヴェイン様」
ユースの声に、アルヴェインが顔を上げた。
目が赤かった。しかしその奥に、まだ何かが残っていた。縋るような光ではなく、もっと古い——自分だけは違うはずだ、という確信の残滓。
「書類の不備は、先ほどセフィアが説明した通りです。現状では受理要件を満たしていません」
「待て」
アルヴェインの声が変わった。
「待てよ。俺は——俺は勇者だぞ」
膝が床から離れた。立ち上がった。肩が震えていた。怒りか、恐怖か、ユースの位置からは判別できない。
「勇者が頭を下げてるんだ。それでも駄目なのか。俺が——俺なら通るはずだろう!」
声が割れた。
待合室の老婦人が目を伏せた。商人風の男が椅子から腰を浮かせかけた。仮担当職員がわずかに前に出たが、ユースが視線で制した。
アルヴェインの拳がカウンターを叩いた。
同じだ、とユースは思った。
初めてこの窓口に来た日と、同じ音だった。
「申請者名」
ユースの声は、その音を跨いだ。
「アルヴェイン・クロス」
手がカウンターの処理印へ伸びる。
朱肉に触れ、持ち上げ、異議申立書の決裁欄に落とす。
乾いた音が一つ、鳴った。
**却下。**
赤い二文字が、白紙だらけの申請書に押された。
ユースは処理済みの書類を差戻し棚へ回し、申請書の控えを切り離してアルヴェインの前に置いた。
「不備内容は控えに記載してあります。修正のうえ再申請される場合は、受付時間内に番号札をお取りください」
アルヴェインは動かなかった。
控えの紙の上で、赤い「却下」の文字だけが、蛍灯の下で乾いていく。
ユースは番号表示を切り替えた。
「十一番の方、どうぞ」
*
アルヴェインは、まだカウンターの前にいた。
控えを握った手が垂れ、番号札が足元に落ちた。
「……なんで」
誰にともなく呟いた声は、もう怒号ですらなかった。
「なんで、俺だけ——」
セフィアが十一番の申請者へ順路を案内しながら、一度だけアルヴェインの方を見た。視線に感情の色はなかった。あるのは業務上の確認だけだった——この申請者は、まだカウンター前に留まっているか。
ユースは十一番の書類を受け取った。通行証の更新申請。添付揃い、記載良好。処理印。受理。
窓口は回る。
アルヴェインが立っていようが、泣いていようが、吠えていようが。
正しいものは通し、間違っているものは止める。
それだけの場所で、「自分だけは例外だ」という人生が、初めて否定された。
赤い二文字によって。
*
アルヴェインの足が、ようやく動いた。
出口へ向かうのではなかった。
一歩。もう一歩。カウンターへ、さらに近づいた。
「まだだ」
声が掠れていた。
「まだ終わってない。俺は——」
ユースの手が止まった。初めてではなかった。この窓口では、受理結果に納得しない申請者が食い下がることは珍しくない。
だが、その目は——もう書類の話をしていなかった。
「お前がいなくなってから全部おかしくなった。宿も、飯も、薬も、通行証も。全部——全部、お前が裏でやってたんだろう」
ユースは答えなかった。
「わかってる。わかってるんだ、今は。だから——」
アルヴェインの手がカウンターの縁を掴んだ。関節が白くなるほど、強く。
「——だから、頼むから」
その先の言葉が、出なかった。
出せないのか、出す言葉を知らないのか。
沈黙のまま、アルヴェインの指がカウンターから一本ずつ剥がれていった。
ユースは十二番の番号を表示した。
窓口の蛍灯が、白く、均等に、カウンターの両側を照らしていた。




