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書類が書けない勇者はお断りします〜追放された受付係の新しい窓口には、今日も魔王軍が番号札を取って順番待ちをしています〜  作者: 今井 幻


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第42話「元勇者、申請者になる」

 宿の天井に染みがある。


 アルヴェインは、それを数えることしかできない朝を三度目に迎えていた。


 裏通りの安宿。一泊の値段は、かつて公費で泊まっていた宿の十分の一以下だった。壁は薄く、隣室の咳が聞こえ、窓は軋み、湯は出ない。


 だが問題はそこではない。


 その十分の一以下の宿代すら、あと何日持つかわからなかった。


 報酬は止まっている。公費支援は打ち切られた。聖剣は押収され、勇者の紋章入り通行証は無効化され、前線通行権は剥奪されている。


 そして——仲間がいない。


 僧侶が去った。斥候が去った。武闘家すら去ったらしい。


「らしい」というのは、正式な通知がまだ届いていないからだ。登録宿所は公費停止の影響で使えなくなっていたから、どこに届くのかもわからない。


 ただ、噂は聞いた。安宿の亭主が、妙に気を遣った顔で教えてくれた。


「勇者パーティー、解散したんだってね」


 その言葉に何も返せなかった。


 *


 昼前に、アルヴェインは中央庁の外壁に出た。


 目的があったわけではない。ただ、宿にいると壁の染みと所持金の計算しかすることがなかった。


 中央庁の正面入口は、以前と変わらず人が出入りしている。商人、兵士、地方からの申請者、教会の事務官。誰もが書類を抱え、番号札を手に、自分の順番を待っている。


 かつてはこの人波の中を、止められることなく通り抜けていた。


「勇者殿、お通りください」


「こちらへどうぞ、優先通路をご案内します」


 そんな声が、当たり前のようにかかっていた。


 今は誰も振り向かない。


 正面入口の横、掲示板の前を通りかかったとき、アルヴェインの足が止まった。


 公示送達の欄。名前が並んでいる。宿所不明、または通常送達が不奏功となった者への告知一覧。


 その中に、自分の名前があった。


 **アルヴェイン・クロス殿**

 **監査局処分第——号に係る異議申し立て手続きの告知**

 **所定の期間内に、所定の様式により異議申し立てを行うことができます**

 **詳細は監査局窓口にてご確認ください**


 文字を三回読んだ。


 異議申し立て。処分に対する不服。つまり——やり直せる可能性。


 胸の底で、何かが跳ねた。


 まだ終わっていない。まだ、取り返せる。


 *


 監査局の案内窓口は、中央庁本館の東棟一階にあった。


 アルヴェインは番号札を取った。六十三番。現在の呼び出しは四十一番。


 待った。


 かつて待合室で待つことなど一度もなかった。「勇者案件」の札を見せれば、どの窓口でも優先された。受付係が走ってきて、書類を受け取り、奥の処理室へ直接案内してくれた。


 今は、椅子に座って、番号が呼ばれるのを待つしかない。


 四十二番。四十三番。


 横に座った商人が、分厚い書類束をめくりながら付箋の位置を確認している。反対側の老婆は、膝の上で申請書の下書きを何度も見返している。


 みんな、準備をしている。


 当たり前のように。


「六十三番の方」


 呼ばれて立ち上がる。案内窓口の職員は、アルヴェインの顔を見ても表情を変えなかった。


「異議申し立ての手続きについて、確認したい」


「承知しました。異議申し立てには、様式第十二号甲による申立書の提出が必要です。添付書類として、処分通知書の写し、申立事由書、身分証明の写し、それから——」


「待て。様式、何号だ」


「第十二号甲です」


「それはどこで手に入る」


「書式棚の東壁、上段右から三番目です。ただし記載にあたっては、処分番号、申立事由の記載欄、署名および押印、日付の記入が必要となります。訂正がある場合は訂正印を——」


「わかった。わかったから、その様式をくれ」


 職員は一瞬だけ間を置いた。


「書式棚からお取りください。こちらはご案内のみとなります」


 *


 書式棚は、壁一面を覆っていた。


 棚には番号と名称が振られている。様式第一号から始まり、甲、乙、丙と枝分かれし、さらに「別紙」「添付」「補足」と細分化されている。


 アルヴェインは棚の前に立った。


 第十二号甲。


 東壁、上段右から三番目。


 手を伸ばして一枚取る。薄い用紙に、細かい罫線と記入欄がびっしり並んでいる。


 上部に「異議申立書(様式第十二号甲)」と印刷されている。その下に——


 **申立人氏名(楷書で記入)**

 **処分通知番号**

 **処分年月日**

 **申立事由(別紙可・四百字以内で要旨を記載)**

 **添付書類一覧(各一通ずつ)**

 **申立人署名**

 **申立人押印**

 **受付日(窓口記入欄・申立人記入不可)**


 処分通知番号。


 アルヴェインは、その欄で止まった。


 処分通知書を受け取っていない。登録宿所に届いていない。公示送達の掲示板には処分番号が書いてあったのか。覚えていない。三回読んだのに、名前と「異議申し立て」の文字しか頭に入っていなかった。


 掲示板まで戻った。


 番号を確認した。手元の紙片にペンで書き写した——が、途中で数字の並びが合っているか不安になり、もう一度見直した。


 書式棚に戻る。


 処分通知書の写し。これは処分通知書そのものを持っていないと作れない。受け取っていない場合はどうするのか。欄外に小さく注記がある。


 **「処分通知書の送達が未了の場合は、監査局庶務課にて原本閲覧および写しの交付を申請してください(様式第四号丁・別途手数料)」**


 様式第四号丁。


 棚を探す。第四号は見つかった。甲、乙、丙——丁はどこだ。


「あの」


 近くにいた職員に声をかけた。


「第四号丁が見当たらないんだが」


「第四号丁は庶務課専用様式ですので、庶務課窓口にてお受け取りください。こちらの書式棚には配架されておりません」


 庶務課。どこだ。


「東棟二階、左手奥です」


 *


 庶務課で第四号丁を手に入れるのに、さらに番号札を取り、二十分待った。


 様式は手に入った。だが記入欄を見た瞬間、また止まる。


 **「交付対象文書の件名および文書番号」**


 処分通知書の正式な件名を知らない。さっき掲示板で見た番号は「処分第——号」だったが、これは「文書番号」と同じなのか、それとも「処分番号」と「文書番号」は別の体系なのか。


 わからない。


 ペンを持つ手が、紙の上で止まっている。


 インクが一滴、用紙に落ちた。


 慌てて拭う。だが罫線の上に染みが広がった。


 訂正印。訂正印がいる。


 持っていない。


「訂正印は、どこで——」


「文具店でお求めいただくか、ご自身の印章をお持ちであればそちらをご使用ください」


 印章。


 勇者の公印は押収されている。個人印は——持っていたはずだ。いつもユースか、僧侶が、管理していた。自分で使った記憶がない。どこにしまったかも覚えていない。


 宿に戻って荷物を探すか。だが荷物自体、ほとんど残っていない。登録宿所を出るとき、最低限の私物しか持ち出せなかった。


「すみません。もう一枚、様式をもらえるか。この用紙、汚してしまった」


 庶務課の職員は、淡々と一枚を差し出した。


「どうぞ。ただし交付は一日二枚までとなっております」


 *


 中央庁の廊下を歩きながら、アルヴェインは二枚の白い用紙を見下ろしていた。


 一枚は異議申立書。もう一枚は処分通知書の写しを交付してもらうための申請書。


 どちらも、一文字も書けていない。


 教会の受付を訪ねた。治療の再申請ができないかと思ったからだ。左腕に残る古傷が、ここ数日、妙に痛む。公費が通っていた頃は、教会の施術が定期的に入っていた。


「恐れ入りますが、現在有効な治療認可が確認できません。個人での申請をご希望の場合は、治療対象者情報更新届・甲種の提出が必要です。所属組織の在籍証明に代えて、個人身分証明と直近の健康記録をご用意ください」


「だからその書類の書き方を——」


「書き方のご案内は、案内窓口にてお受けしております。番号札をお取りください」


 番号札。


 また番号札だ。


 一般受付に回された。そこでも番号札を取り、待ち、呼ばれ、「様式をご確認ください」と返され、書式棚を案内され、また知らない様式番号を告げられた。


 どの窓口も、同じ声で、同じ言葉を返してくる。


「規程ですので」


「様式をご確認ください」


「番号札をお取りください」


 誰も意地悪をしているわけではなかった。嘲りも、悪意も、感じなかった。


 ただ——何もしてくれない。


「勇者」と名乗っても、「以前は通してもらえた」と言っても、「急いでいる」と訴えても、返ってくるのは同じ温度の言葉だった。


 ここで初めて、奇妙なことに気づいた。


 この壁は、前からあったのだ。


 手続き。様式。番号。記入欄。添付書類。押印。


 世界は、最初からこうだった。ただ一人の受付係が、この壁を全部、先回りして取り除いていただけだった。


 *


 夕方。


 安宿の部屋で、アルヴェインは机に向かっていた。


 異議申立書。白い用紙。まだ白い。


 ペンを握り、まず名前を書いた。「アルヴェイン・クロス」。楷書で。これだけは書ける。


 処分通知番号。掲示板で書き写した番号を転記する。合っているかどうか、確認する術がない。明日また掲示板を見に行くしかない。


 処分年月日。いつだ。掲示板に書いてあったか。書いてあった気もする。書いていなかった気もする。


 申立事由。


 ペンが止まる。


 四百字以内で要旨を記載。


 何を書けばいい。


「俺は勇者だ。処分は不当だ」


 ——それは事由ではない。案内窓口の職員が言っていた。「事実に基づき、処分の根拠となった事項について具体的に記載してください」と。


 事実。


 聖剣の無認可行使。虚偽報告。公費不正使用。監査妨害。保護対象職員への襲撃。


 どれも、やった。


 やったが——いや、あれは——


 ペンを置く。


 もう一度持つ。


「申立事由」の欄に、何かを書こうとする。だが文字にならない。「俺は悪くない」と書くのか。「あいつが先に俺を——」と書くのか。それが四百字以内の「要旨」として通るのか。


 通らない。


 そんなことは、書類を見たことのない人間でもわかる。


 窓の外が暗くなっていく。安宿の灯りは暗い。油の質が悪いのか、炎が何度もちらつく。


 紙の上には、名前と、合っているかわからない番号だけが並んでいる。


 他の欄は全て空白だった。


 *


 翌朝。


 アルヴェインは中央庁の掲示板で処分番号を確認し直した。一桁、書き写しを間違えていた。


 異議申立書は書き直すしかない。書式棚から新しい用紙を一枚取った。こちらは棚に並んでいるから、自分で取ればいい。


 問題は、もう一つの方だった。


 昨日、庶務課でもらった処分通知書の写し交付申請——様式第四号丁。あれはインクの染みをつけたまま、宿の机に放置してある。庶務課の用紙は一日二枚までだったが、日が変わっている。もう一枚もらえるはずだ。


 庶務課の番号札を取り、待ち、呼ばれ、第四号丁を受け取った。今度こそ交付申請を仕上げようとする。だがこちらにも処分番号を書く欄がある。さっき確認し直した番号で合っているはずだが——


「あの、この番号が正しいかどうか、確認してもらえないか」


 庶務課の窓口職員は、アルヴェインの手元の紙片を一瞥した。


「申し訳ございませんが、番号の照合は受付処理の段階で行います。事前確認は業務外となります」


 受付処理の段階。つまり、書類を出してから間違っていたとわかる。間違っていたら差戻される。差戻されたらまた用紙をもらって書き直す。


 この繰り返しを、あの受付係は——


 ——毎日、何十件と、他人の分まで、やっていたのか。


 その思考を、アルヴェインは振り払った。


 認めたくなかった。


 あいつの仕事が、特別だったなどと。俺のために必要だったなどと。「書類なんて誰がやっても同じ」と言った自分が、間違っていたなどと。


 だが現実は、二種類の用紙を前にして、どちらも一文字目から進まないという事実だけを返してくる。


 *


 午後。


 アルヴェインは三度目の番号札を握りしめて、案内窓口の椅子に座っていた。


「先ほどもご案内しましたが、申立事由の記載方法については、書式裏面の注意書きをご参照ください。個別の代筆は業務外——」


「じゃあ誰に頼めばいいんだ!」


 声が大きくなった。待合室の視線が集まる。


 職員は表情を変えない。


「法務代理人の利用が可能です。ただし費用は自己負担となります」


 法務代理人。金がかかる。金がない。


「他に方法はないのか。書き方を教えてくれる場所とか——」


「教会が月一で開催しております小等部向け申請講座がございます。次回は来月十五日の——」


 小等部向け。


 子供向けの講座。


 アルヴェインは、それ以上何も言えなかった。


 *


 宿への帰り道。


 三枚目の用紙には、名前と、今度こそ正しいはずの処分番号と、処分年月日だけが書いてあった。


 申立事由は空白。添付書類は何一つ揃っていない。署名欄はあるが押印がない。個人印の所在は不明。


 一日かけて、たったこれだけ。


 通りの向こう、中央庁の西棟が見える。あの建物の中に、第三窓口がある。


 あの男がいる。


 追放した。万年筆を折った。「窓口業務しかできない無能」と呼んだ。公衆の前で叩き出した。


 その男の窓口が、今この王都で唯一——


 いや、違う。


 たった一つの窓口に縋ろうとしている自分が、滑稽だった。


 だが他にどこがある。


 法務代理人を雇う金はない。書き方を教えてくれる者もいない。仲間は一人も残っていない。


 教会も、監査局も、庶務課も、案内窓口も、全てが同じ言葉を返してきた。


「様式をご確認ください」


「番号札をお取りください」


「規程ですので」


 どの壁も越えられなかった。


 一つだけ、覚えていることがある。


 あの窓口は——不備があれば差戻すが、正しいものは通す。


 噂で聞いた。教会でも聞いた。魔王軍の使者すら、あそこだけは平等だと言っていた。


 だったら。


 もし、正しい書類を持っていけば。正しく書けてさえいれば。あの男は——通すのか。


 俺の申請でも。


 その問いに答えが出ないまま、アルヴェインの足は、ぼろぼろの申請書を握った手ごと、西棟の方角へ向いていた。


 *


 明日、第三窓口が開く。


 明日、かつて追放した男の前に、申請者として立つ。


 未完成の書類を一枚だけ持って。

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