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書類が書けない勇者はお断りします〜追放された受付係の新しい窓口には、今日も魔王軍が番号札を取って順番待ちをしています〜  作者: 今井 幻


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第32話「強制署名」

 施行二十二日目。


 朝の鐘がまだ鳴らない。渡り廊下の空気は冷えていて、石壁が夜の湿気を含んだままだった。


 ユースは歩きながら、本棟二階の奥を見た。


 処理室の窓。灯りが点いている。


 二晩目だ。


 *


 閲覧室の鍵を開け、椅子に座る。


 帳票棚を確認した。六点。昨日と同じ配置、同じ順番。触れた形跡はない。棚の端に裏返した白紙メモ。それも動いていない。


 窓を少しだけ開けた。朝の空気が入ってくる。


 今日の閲覧申請は二件。どちらも定例の配架確認で、判断を要するものではない。


 ユースは一件目の帳票束を開き、通し番号の照合を始めた。


 *


 午前の鐘が鳴った頃、廊下に足音が増えた。


 いつもと違う。


 閲覧室は東棟の端にあるから、本棟との間を行き来する人間の足音は渡り廊下を通る。普段なら一時間に二、三人。今日は鐘が鳴ってから十分も経たないうちに、四度聞こえた。


 どれも早足だった。


 ユースは帳票の照合を続けた。


 *


 五度目の足音は、止まった。


 閲覧室の前ではない。渡り廊下の途中、本棟側の階段口あたりだ。誰かと誰かが短く言葉を交わしている。内容は聞こえない。声の調子だけが壁を伝ってくる。


 低い。急いている。苛立っているのではなく、困っている声だ。


 十秒ほどで足音が二手に分かれた。一つは本棟へ戻り、もう一つは一階へ降りていった。


 *


 昼前。


 配送係が閲覧室に顔を出した。定例の内部便を届けに来ただけだが、受け渡しの手が少し震えていた。


「……今日、書庫に法務局の方が来ていました」


 ユースは受領印を押しながら、視線を上げなかった。


「旧様式の規程集を三冊、棚から出していたんですが……戻す時に順番が違っていて、書庫番が直していました」


 旧様式の規程集。


 ユースの手は止まらなかった。受領印を押し終え、控えを配送係に返す。


「ありがとうございます」


 配送係は何か言いたそうにしていたが、ユースがそれ以上何も聞かなかったので、小さく会釈して出ていった。


 *


 旧様式の規程集を引いている。


 事後包括特例承認の書式は、現行の法務様式には存在しない。二十年以上前に廃止された旧監査救済様式群の中にだけ、雛形が残っている。


 それを探しているということは、あちら側がその書類を作り始めたということだ。


 ユースは二件目の配架確認に取りかかった。通し番号を一つずつ読み合わせ、配架位置を記録票に転記していく。


 窓の外で、風向きが変わった。午前の湿った空気が乾き始めている。


 *


 午後。


 渡り廊下の足音はさらに増えた。だが閲覧室には誰も来ない。


 ユースは配架確認を終え、記録票を綴じた。


 静かだった。


 処理室の方角から、何かを運ぶような重い足音が一度だけ聞こえた。書類の束ではない。もっと硬い音——おそらく規程集か、綴じ台か。


 その後、しばらく何も聞こえなくなった。


 *


 午後の鐘が二度目を打った頃だった。


 渡り廊下に足音。一人分。


 今度の足音には迷いがあった。三歩進んで止まり、また歩き出す。閲覧室の前で完全に止まった。


 扉を叩く音。二回。間隔が不均等だった。


「どうぞ」


 扉が開いた。


 法務局の下級書記官だった。名前は知らない。処理室で何度かすれ違った程度の若い男で、目の下に濃い隈ができている。制服の襟元が片方だけ折れていた。


 彼は両手で一通の書類を持っていた。


 封筒ではない。薄い革紐で綴じられた、三枚組の書面。表紙に朱印が一つ。


「回付書類です」


 声がかすれていた。


「事後包括特例承認。法務局次長決裁済み。監督記録への編綴指示が付いています」


 ユースは立ち上がらなかった。


「こちらへ」


 机の上を示した。下級書記官は書類を置き、一歩下がった。手が震えていたのは配送係と同じだが、こちらの方がひどい。


「受領印を」


 ユースは受領印を押した。控えを切り離し、下級書記官に渡す。


「ご苦労様です」


 下級書記官は控えを受け取り、何か言おうとした。口が開きかけて、閉じた。


 そのまま一礼して、閲覧室を出ていった。足音が渡り廊下を早足で遠ざかる。本棟の方角へ。


 *


 閲覧室に一人になった。


 机の上に、三枚組の書面がある。


 ユースは革紐を解いた。


 一枚目。事後包括特例承認申請書。


 宛先は監督記録管理。発信元は財務監督院法務局。日付は今日——施行二十二日目。


 承認対象期間の欄に、施行初日から本日までの全日程が記載されている。対象案件の欄には「戦時一元運用に基づく特例処理案件一式」。


 二枚目。承認理由書。


「監査照会への統一的対応および記録整合の事後確保のため、対象期間における特例処理の包括的事後承認を申請する」


 三枚目。署名欄。


 ギデオン・ヴァルカスの署名があった。


 インクの乾き具合を見た。完全には乾いていない。署名から一時間も経っていない。


 朱印は法務局次長の職印だった。押印の角度がわずかに傾いている。普段のギデオンなら、こんな雑な押し方はしない。


 ユースは三枚を順に読み直した。


 書式は旧監査救済様式の雛形に沿っている。二十年以上前に廃止された書式だが、廃止されたのは「雛形の配布」であって、「書式の法的有効性」ではない。


 つまり、この書類は有効だ。


 そして、この書類が有効であるということは——


 ユースは三枚を元の順番に重ね、革紐を結び直した。


 帳票棚には入れなかった。


 *


 立ち上がった。


 書類を左手に持ち、閲覧室の灯りを消した。


 渡り廊下を歩く。東棟から本棟へ。午後の光が石壁に斜めの影を落としている。


 足音は自分のものだけだった。さっきまで行き交っていた人影が、廊下から消えていた。


 本棟二階。法務局特例処理室の前に立つ。


 扉は閉まっている。カーテンは引かれたまま。隙間から灯りが漏れている。


 ユースは扉を叩いた。三回。均等な間隔で。


 中から物音がした。椅子が引かれる音。足音。


 扉が薄く開いた。


 隙間から顔を出したのは、先ほどとは別の部下だった。こちらも隈が深い。ユースの顔を見て、一瞬だけ目が泳いだ。


「回付書類の受領確認です。決裁者への通知が必要です」


 閲覧権限内の手続きだった。回付書類を受領した場合、決裁者への到達確認通知は閲覧担当の義務に含まれる。越権防止命令に抵触しない。


 部下はそれを理解したのか、あるいは判断する余裕がなかったのか。


 扉が開いた。


 *


 処理室の中は、二十一日前とは別の場所になっていた。


 机の上に書類が積まれている。だが整理されていない。通常なら案件ごとに分類される帳票が、時系列も区分も無視して山になっている。壁際には規程集が三冊、開いたまま重ねられている。旧様式のものだ。


 灯りは天井の術灯が二つとも点いている。昼間なのにカーテンが引かれているから、術灯だけが室内を照らしていた。空気が籠もっていて、インクと紙と、長時間人間が閉じこもった部屋の匂いがした。


 奥の机に、ギデオン・ヴァルカスが座っていた。


 上着を椅子の背にかけ、シャツの袖を肘まで捲っている。ユースが知るギデオンは常に上着を着て、襟元まで整えていた。


 顔を上げた。


 目が合った。


 ギデオンの目は充血していたが、視線は揺れていなかった。疲弊はしている。だが、まだ折れてはいない。自分が正しい選択をしたと思っている目だった。


「……通知か」


 ユースは書類を持ち上げた。


「事後包括特例承認。法務局次長ギデオン・ヴァルカス決裁。施行初日から本日までの特例処理案件一式を対象とする包括的事後承認」


 室内にいた部下が二人、ユースの方を見た。一人は立ったまま、もう一人は机に手をついていた。


 ユースは書類の三枚目を開き、署名欄を確認した。すでに読んだ。だがここでもう一度、決裁者の前で確認する。手続きとして。


「署名を確認しました」


 ギデオンは頷いた。その顔には、わずかに安堵の影があった。


 これで監査照会への統一回答が可能になる。四方向から突きつけられた記録の不整合を、この一枚で事後的に正当化できる。——そう考えている顔だ。


 ユースは書類を閉じた。


 一拍。


 処理室の術灯が、ちらりと瞬いた。気のせいかもしれない。だが、ユースにはその光の揺れが、世界法の深層が書類の受理を感知した瞬間に見えた。


「受理しました」


 ギデオンの眉が動いた。


 ユースは続けた。


「これにより、神代規程の禁則条項が発動します」


 音が消えた。


 処理室の術灯の低い唸り。廊下を歩く誰かの遠い足音。紙の山が微かに立てる乾いた音。それらが全部、一瞬だけ遠のいた。


 机に手をついていた部下の指が、白くなった。


 ギデオンの目から、安堵が消えていた。


「——何を、言っている」


 その声は、まだ平静を装っていた。


 ユースは答えなかった。


 書類を左手に持ったまま、処理室の扉へ向き直った。


 背中に視線を感じる。ギデオンの。部下たちの。


 誰も、動けなかった。


 *


 渡り廊下を戻る足音は、行きと同じ速度だった。


 東棟二階。閲覧室の扉を開け、灯りを点ける。


 署名済みの書類を机に置いた。


 帳票棚は開けない。この書類は棚には入れない。ここから先は、閲覧記録ではなく、監督記録として扱われる。


 ユースは椅子に座った。


 窓の外で、午後の光が傾き始めていた。渡り廊下の向こう、処理室の窓から漏れる灯りが——


 消えた。


 二晩点き続けていた灯りが、消えた。


 カーテンの隙間が暗くなっている。


 ユースはそれを見て、視線を机の上の書類に戻した。


 三枚組の書面。革紐。朱印。傾いた押印。乾きかけのインク。


 すべてが、あちら側の選択によって、ここにある。


 ユースが強いたのではない。ユースが仕掛けたのでもない。


 四方向の正しい記録が、嘘を維持する余地を消した。残された唯一の扉を開けたのは、ギデオン自身だ。


 そして、その扉の向こうに何があるかを——今、知った。

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