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書類が書けない勇者はお断りします〜追放された受付係の新しい窓口には、今日も魔王軍が番号札を取って順番待ちをしています〜  作者: 今井 幻


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第31話「罠は完成する」

 施行二十一日目。


 閲覧室の扉を開けたとき、渡り廊下に人影がなかった。


 昨日はまだ、朝の鐘の前に二、三人がすれ違っていた。法務局側の連絡員か、監督院の記録官か。少なくとも誰かがこの廊下を通る気配はあった。


 今朝は、それもない。


 足音の代わりに聞こえるのは、本棟二階の奥——法務局特例処理室のあたりから漏れてくる、紙を繰る音だけだった。あの灯りは昨夜から消えていない。ユースが閲覧室を出たとき点いていて、今朝来たときもまだ点いている。


 椅子を引いた。


 帳票棚を確認する。五点。辺境砦の回答。薬師組合の台帳写し。セフィアの紙片。薬師組合台帳の提出記録と副本の綴じ書類。ドレヴァンの照会書と抜粋写し二枚。


 すべて昨夜の位置のまま。触った形跡はない。


 ユースは閲覧申請の配架分を棚から出し、朝の業務を始めた。


 *


 二件目の配架票に目を通しているとき、廊下の端で足音がした。


 処理室方面からではない。逆だ。東棟一階——教会連絡口のある方角。昨夕、中庭を横切って本棟へ向かっていた、あの歩幅の狭い足音と同じリズムだった。


 階段を上がってくる。二階の廊下を曲がる。


 閲覧室の前で、足音が止まった。


 扉を叩く音は三回。間隔が均等で、力加減に迷いがない。


「どうぞ」


 扉が開いた。


 セフィア・ルミナレスは、教会の照合特務室の制服のまま、左腕に薄い綴じ書類を一冊抱えていた。


 淡い金髪が朝の光を受けている。表情はいつもの穏やかな笑みだが、目の奥に、帳簿の数字を追い終えた人間だけが持つ種類の確信があった。


「おはようございます、ユースさん」


「おはようございます」


「お邪魔してもよろしいですか。閲覧室の利用申請は昨日のうちに出してあります」


 ユースは受付簿を確認した。確かに、教会照合特務室からの閲覧利用申請が昨日付で一件入っている。経路は正規の内部便。処理印も押されている。


 セフィアは補佐席ではなく、閲覧室の利用者用の椅子に座った。


 配置換え中の人間が、元の補佐席に戻る理由はない。だが閲覧室の利用者として来る権利は、申請さえ通せば誰にでもある。


「それを」


 ユースは綴じ書類に目を向けた。


 セフィアは膝の上の書類を開かず、表紙だけを見せた。


 教会照合特務室の印。広域治療認可・照合記録。対象期間は、臨時戦時特例の施行日から直近まで。


「揃いました」


 それだけ言った。


 *


 セフィアが書類を開いたのは、ユースが配架作業を一区切りつけた後だった。


 広域治療認可の照合記録。教会が管轄する回復魔法認可の時刻と、法務局が特例処理で通した治療関連申請の承認時刻を、日付順に並べたものだった。


 数字の列が並んでいる。


 ユースはページを繰らなかった。最初の見開きだけで十分だった。


 施行五日目。施行八日目。施行十二日目。


 教会側の認可時刻と、法務局側の承認時刻が、三箇所で逆転している。


 教会がまだ認可を出していない時刻に、法務局側が「認可済み」として治療申請を通している。


「これは——」


「はい。教会の認可が降りる前に、法務局側が先に通しています。三件とも」


 セフィアの声は穏やかだった。数字の意味を説明する必要がないと分かっている人間の声だった。


「私が照合特務室でできるのは、教会側の記録を正確に取りまとめることだけです。それ以上のことは、権限の外ですので」


 ユースは頷いた。


 セフィアは何も逸脱していない。教会側の記録を教会側の権限で整理し、閲覧室に正規の利用申請を出して持ち込んだ。照合記録の中身は教会の公式数字であり、誰かの推測や意見ではない。


 ただの数字だ。


 だが、その数字は嘘をつかない。


 ユースは見開きから目を離し、綴じ書類をセフィアへ戻した。


 セフィアは書類を膝の上に置き直し、表紙を閉じた。


 *


 午後の配架が終わる頃、廊下に足音が増えた。


 処理室方面から本棟一階——監督院受付の方角へ。昨日も一昨日もあった動線だが、今日は往復の間隔が短い。行って、戻って、また行く。同じ人間が何度も同じ場所を往復している足音だった。


 配送係が午後の便を届けに来たとき、ユースは一つだけ尋ねた。


「処理室は」


 配送係は少し困った顔をした。


「……今朝から、中の人が出てこないんです。書類の受け渡しも扉越しで。一人だけ、さっき廊下で見かけましたけど、顔色が悪くて」


 ユースは礼を言って、配送係を見送った。


 セフィアは利用者用の椅子で、教会の照合記録を静かに読み返していた。顔を上げたのは、配送係の足音が廊下の角を曲がってからだった。


「聞こえましたか」


「ええ」


 セフィアはページを閉じた。視線が、帳票棚の方へ動いた。


 五点の書類が並んでいる。そして、自分の膝の上にもう一冊。


 しばらく、その棚と手元を見比べていた。


「もう、事後包括特例承認しか残っていませんね」


 静かな声だった。


 帳票棚の書類と自分の手元の数字を重ねて言ったのか、処理室の異常を聞いて言ったのか、ユースには分からなかった。おそらく両方だった。数字が揃い、その数字を前にした人間たちが扉を閉めて出てこなくなっている。その二つが重なれば、結論は一つしかない。


 ユースは何も答えなかった。


 その名前が閲覧室の空気に落ちた瞬間、ユースは椅子の背もたれに手を置いたまま、数秒だけ動かなかった。


 事後包括特例承認。


 現場で積み上がった不整合や規程との齟齬を、後から一括で「承認済み」として処理する書類。強力で、危険で、一度署名すれば撤回できない。


 セフィアがその名前を口にしたということは、教会の照合記録を突き合わせた結果、部分修正ではどうにもならないと確認できたということだ。


「あちら側が気づくのは、いつ頃だと思いますか」


 セフィアの問いに、ユースは窓の外に目を向けた。


「もう気づいている人間はいるはずです」


 処理室の灯りは、昨夜から消えていない。


 紙を繰る音は朝からずっと聞こえていた。照会書の束を並べ直し、辻褄を合わせようとして、合わせるたびに別の場所がずれる。その繰り返しを、あの灯りの下で誰かがやっている。


 だからこそ、灯りが消えない。


 だからこそ、扉が開かない。


 *


 夕方の鐘が鳴る少し前だった。


 セフィアが綴じ書類を閉じ、立ち上がった。


「私は教会に戻ります。閲覧利用の記録、お願いします」


 ユースは利用簿に退室時刻を記入した。


「こちらは」


 セフィアは手元の教会照合記録に目を落とした。少し考えてから、綴じ書類をユースの机の端に置いた。


「閲覧室に置いていきます。教会側の原本は特務室にありますので、こちらは回付分として扱ってください」


 ユースは書類を受け取り、帳票棚を開けた。


 辺境砦の回答の隣、正規の位置に差し入れる。


 六点。


 棚の中に、六つの書類が並んだ。


 セフィアは扉の前で振り返った。


「ユースさん」


「はい」


「私がやったのは、教会の数字を正確に並べただけです」


 ユースはペンを置いた。


 セフィアは帳票棚を見ていた。五点が六点になったばかりの棚を。


「——ただそれだけのことが、こんなに重いんですね」


 ユースは答えなかった。


 答える代わりに、帳票棚に目を向けた。六点の書類が、正規の位置に並んでいる。


 セフィアは小さく頭を下げて、閲覧室を出た。


 教会連絡口の方角へ、歩幅の狭い、迷いのない足音が遠ざかっていく。


 *


 閲覧室に一人になった。


 ユースは帳票棚を開けなかった。中身は分かっている。四方向の記録が揃い、逃げ道はすべて塞がっている。


 残っているのは、一つだけ。


 事後包括特例承認。


 ギデオンがそこに署名するかどうかは、ユースが決めることではない。


 だが、署名しなければ監査局の本格調査が四方向の記録を拾い上げる。署名すれば——その先にあるものは、ギデオンが知らない領域にある。


 どちらを選んでも、行き着く場所は同じだ。


 ただ、行き着くまでの時間が違う。


 白紙のメモ用紙を見た。


 三通の到着を待っていた頃の名残だ。もう追記する必要はない。待つものはすべて届いた。


 ユースはメモ用紙を裏返し、棚の端に置いた。


 あとは、あちら側が選ぶ番だ。


 *


 閲覧室の灯りを消した。


 渡り廊下を歩く。本棟二階の奥、処理室の窓から漏れる光が、廊下の壁に細い線を引いている。


 昨日までと同じ光だ。


 だが、あの光の下にいる人間たちは、もう知っている。


 四方を壁に囲まれていること。


 残された扉が一つだけあること。


 そして、その扉の向こうに何があるかを——まだ、知らないこと。

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