第30話「魔王軍が蓋をする」
施行二十日目。
朝の鐘が鳴る前に、ユースは閲覧室の椅子に座っていた。
窓の外の渡り廊下を見る。昨日まではまだ、処理室と流通管理課のあいだを往復する足音が聞こえた。不規則で、焦りを含んだ靴音だった。
今朝は、それすらない。
足音が消えたのではない。往復する先がなくなったのだ。流通管理課に投げた照会は空振りし、投げ返す相手も見つからない。残っているのは処理室に閉じ込められた人間だけで、しかもその人数は昨日より一人少ない。
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閲覧申請の配架が三件。
帳票を受け取り、台帳記号を確認し、所定の棚から引き出して机に並べる。
どれも通常業務だった。特例処理に関わる帳票ではないし、照会が絡む案件でもない。淡々と読み、必要事項を確認し、戻す。
それだけの朝が過ぎていく。
権限のない人間にできることは、正確に読み、正確に戻すことだけだ。
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昼の鐘が鳴った頃、配送係が顔を出した。
今日は口ごもらなかった。
「回付書類です。外部照会の閲覧室宛て」
差し出された封筒は、見慣れない紙質だった。
やや厚みのある灰青色の封紙。角が丸く裁断されている。王国の公用封筒は角が直角で、教会のものは蝋封が付く。どちらでもない。
魔王軍の正式書式だった。
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ユースは封筒を受け取った。
配送係は一瞬、中身を訊きたそうな顔をしたが、何も言わずに会釈して出ていった。
封を切る。
中から出てきたのは、一枚の照会書と、補給契約の抜粋写し二枚。旧様式の手続き書式で、発送日は施行十四日目。六日かかっている。旧様式は中継局を経由するから、妥当な日数だった。
照会書の宛先は「王都中央庁・世界法運用局宛て」。だが回付先として「旧・第三窓口担当者」の記載があり、それが閲覧室に届いた理由だった。
差出人の名は、ドレヴァン。
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文面は短かった。
実務屋の書く照会書はどこの陣営でも似ている。前置きが少なく、数字が多く、余計な修飾がない。
要旨はこうだ。
王国側が施行した運用変更——すなわち戦時一元運用——により、魔王軍側の補給契約に不自然な重複が生じている。具体的には、同一物資に対して旧契約番号と新規割り当て番号が並行して残存し、輸送魔獣の維持契約と補給到着確認の照合が噛み合わなくなった。
ドレヴァンは数字でそれを示していた。旧契約番号、新規番号、重複発生日、照合不一致の件数。過不足なく、正確に。
そして照会書の末尾に、一文だけ。
「前任の第三窓口担当であれば、こんな初歩的な干渉は起こさなかったはずだが」
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ユースはその一文を読み終えて、照会書を机に置いた。
抜粋写しの二枚にも目を通す。数字に嘘はない。ドレヴァンが菓子折りではなく数字を持ってきたのは、あの男が賄賂より記録を信用する人間だからだ。
窓の外を見た。
渡り廊下に、一つだけ人影が見えた。処理室の方向から本棟一階——監督院の受付がある方角へ、足早に向かっている。
走ってはいない。だが歩幅が広い。
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午後の鐘が鳴った。
配送係が二度目に来た。今日は珍しく、回付物ではなく口頭だった。
「法務局の方が、監督院の記録室に何か照会されたみたいです」
ユースは顔を上げた。
「記録室に」
「ええ、戦時一元運用の施行根拠に関する記録だとか。対敵勢力対応の必要性を示す書面を探しておられるそうで」
ユースはうなずいた。
「見つかりますか」
配送係は首を傾げた。
「さあ……でも、記録室の係が困った顔をしていたのは見ました」
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探すだろう、とユースは思った。
一つ目の逃げ道——案件の一部切り捨て——は、辺境砦の正式照会で塞がれた。前線記録との不一致を切り離せなくなった。
二つ目——流通認可側への責任転嫁——は、薬師組合の完璧な台帳で塞がれた。搬入時刻のずれは流通の遅延ではなく、特例認可の時刻のほうだと数字が証明した。
残っていたのは三つ目だ。
「この運用変更は、敵対勢力への対応として必要だった」
戦時一元運用の名目そのもの。対魔王軍の戦況に資するための効率化であり、多少の不整合はやむを得ないコストだった——そう主張すれば、監査局も政治的判断として踏み込みにくい。
大義は、最も頑丈な盾になる。
だが。
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ユースは机の上のドレヴァンの照会書に視線を戻した。
当の敵対勢力が、正式な書式で、数字を添えて、こう言っている。
この運用変更は不要だった。むしろ迷惑だった。前の担当者のほうがまともだった、と。
敵に「助かった」と言わせるための制度変更が、敵から「迷惑だ」と突き返されている。
大義の盾は、それを向ける相手に「そんな盾は要らない」と言われた瞬間、ただの板になる。
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夕方の鐘が近づいていた。
渡り廊下の人影は、午後の途中からまた消えた。記録室に向かった人影が戻ったのかどうかは、ユースの位置からは見えなかった。
だが、本棟二階の窓に灯りが点いた時刻だけは分かった。
昨日より早い。
まだ空が赤い時間に、処理室の灯りが点くということは、日が暮れてから始める作業ではなく、日が暮れる前に始めなければならない作業があるということだ。
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ドレヴァンの照会書と抜粋写し二枚を揃え、帳票棚の正規位置に収納した。
辺境砦の回答。隣のスリーブに薬師組合の台帳提出記録と副本綴じ書類。その隣に、今日のドレヴァンの照会書。
三つのスリーブが並んでいる。
辺境の砦。地方の薬師。魔王軍の補給将。
方角も立場も陣営も違う。共通しているのは一つだけだ。どれも、正確な記録を、正確に出した。ユースが頼んだのはそれだけだった。記録を正確に出してほしい、と。
そしてどの記録にも、同じ比較が添えられている。
前の担当者なら、こんなことにはならなかった——と。
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メモ用紙を裏返した。
昨日書いた閲覧対象の台帳記号の横に、もう書き足すものはなかった。
三通、届いた。
辺境砦の回答は施行十八日目に法務局着。薬師組合の台帳原本は施行十八日目に監査局着。ドレヴァンの照会は今日、施行二十日目に閲覧室着。
ユースはメモ用紙を伏せた。
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窓の外を見た。
本棟二階の灯りは、もう安定している。誰かが机に向かい、何かを探しているか、何かを書いている。
だが、何を探しても。
辺境の記録が、流通の記録が、そして敵対勢力の記録が、同じことを言っている以上——
「必要だった」とは、もう言えない。
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帳票棚を閉じた。
閲覧権限者であれば、誰でもこの三点に手が届く。監査局が本格調査に入れば、ここに並んでいる書類の意味は、数字を読める人間なら誰でも分かる。
ユースは椅子の背に手を置いた。
まだ、この閲覧室でできることは終わっていない。
教会の照合特務室に、もう一つの数字が揃いつつあるはずだった。治療認可の照合記録。それが最後の一枚になる。
だが、それはユースの手の中にはない。
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窓の外で、渡り廊下を誰かが歩いていた。
処理室の方向からではない。東棟一階——教会連絡口のある方角から、中庭を横切って本棟へ向かう、小さな人影。
歩幅が狭い。だが、迷いがない。
ユースはその人影を目で追った。
本棟の角を曲がって、見えなくなった。
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灯りを消す前に、帳票棚をもう一度見た。
三方向からの記録が、正規の位置に並んでいる。
逃げ道は、もう三つとも塞がっている。
残っているのは——
ユースはその先を考えなかった。考える必要がなかった。
残っているものが何か、気づくのはあちら側の仕事だ。
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閲覧室の灯りを落とした。
本棟二階の光は、今夜も消えない。
昨日と同じ光。一昨日と同じ光。
だが、あの光の下にいる人間が立っている場所は、もう三方を壁に囲まれている。




