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書類が書けない勇者はお断りします〜追放された受付係の新しい窓口には、今日も魔王軍が番号札を取って順番待ちをしています〜  作者: 今井 幻


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第29話「二つ目の退路も消える」

 施行十九日目。


 朝の鐘が鳴る前に、ユースは閲覧室の椅子に座っていた。


 昨夜切り出したメモ用紙が机の左端にある。表には日付。裏には今日の閲覧申請票の番号。それだけの紙片が、今の彼にとっては帳簿と同じ重さを持っている。


 窓の外を見た。


 本棟二階の灯りは消えていなかった。昨夜からずっとだ。だが今朝は、渡り廊下に人影が戻り始めている。


 昨日と違う。


 昨日の夕方、監査局の予備照会が届いた後は、あの廊下を誰も通らなかった。全員が処理室に閉じこもったまま夜を越えた。それが今朝になって、足音が復活している。


 ただし、歩き方が変わっていた。


 昨日までの渡り廊下は、往復する足音だった。処理室と書庫、処理室と伝達窓口の間を行き来する、業務上の移動。


 今朝の足音は、片道しかない。


 同じ方向へ、何人かが続けて向かっている。処理室からではなく、本棟一階の別部署——おそらく流通管理課のある西翼から、処理室へ向かう足音だった。


 *


 呼ばれている。


 ユースはそう判断した。


 辺境砦の正式照会で「案件の一部切り捨て」が封じられた。監査局の予備照会で「部分修正」も封じられた。


 一つ目の退路は、昨日の夕方に完全に塞がっている。


 次に動くとすれば。


 帳票棚を見た。薬師組合の台帳写しが、辺境砦の回答と同じファイルに収まっている。正規の位置に、正規の手続きで。


 視線を戻した。


 *


 朝の鐘が鳴った。


 閲覧申請の受付が始まる。今日は三件。昨日申請した分が、いつも通り机上に配架される。


 ユースは一冊目の台帳を開いた。


 通常業務だった。越権防止命令下で許されている、唯一の日常。閲覧し、記録し、返却する。差戻しも却下もできない手で、帳面の数字だけを追う。


 だが、数字は嘘をつかない。


 一冊目の台帳には、先月の補給伝票の処理番号が並んでいた。特例処理開始前のもの。番号の間隔が等しく、認可時刻の並びに乱れがない。


 当たり前だ。あの頃は第三窓口が通していた。


 *


 午前の半ばに、配送係が来た。


 前と同じ青年だった。今日は封筒ではなく、口頭で来ている。


「東翼の流通管理課に、法務局から照会が入ったそうです」


 ユースは台帳から目を上げなかった。


「流通認可の処理時刻に関する照会だと。搬入記録との突合を求められたって話が、さっき西翼の連絡窓口から回ってきました」


 流通管理課に。


 処理時刻の突合を。


 ユースは台帳のページを一枚めくった。


「ありがとうございます」


 配送係は少し待って、それ以上何も出てこないと分かると、小さく頭を下げて出ていった。


 *


 流通認可側への責任転嫁。


 特例処理によって補給・治療・通行が一括で通るようになった際、搬入物資の到着時刻と認可時刻の間にずれが生じている。そのずれを「流通管理課の搬入処理が遅れたから」と位置づければ、特例処理そのものには瑕疵がないと主張できる。


 辺境砦の件は前線記録で封じられた。監査局の予備照会で修正もできない。


 だから今度は、問題の原因を流通側に移す。


 二つ目だった。


 ユースは台帳を閉じ、帳票棚の前に立った。


 薬師組合台帳写し。


 二日前に正規収納したそれは、ファイルの中で静かに待っている。搬入時刻、認可番号、数量、受領印。地方の薬師が日々記録してきた、嘘のない数字の列。


 ユースが一年前に正式受理へ導いた、あの治療薬流通許可申請。その台帳は、流通管理課が処理を遅らせたのではなく、特例認可の時刻そのものがずれていたことを証明する。


 ユースは台帳写しに触れなかった。


 触れる必要がなかった。


 *


 午後。


 配送係ではなく、廊下の空気が変わった。


 渡り廊下の足音が、午前の片道から、不規則な往復に変わっている。処理室と流通管理課の間を何度も行き来する音。速い。


 だが、それが突然止まった。


 しばらくの沈黙の後、本棟二階から階段を降りる重い足音が一つ。それきりだった。


 *


 夕方の鐘の少し前。


 配送係が戻ってきた。今度は薄い綴じ書類を一束持っている。


「監査局宛ての提出記録と、台帳副本の写しです。閲覧室への回付分として」


 ユースは受け取った。


 表紙は一枚の提出記録だった。薬師組合名義で、監査局の受領印が押されている。提出先は監査局。提出者は、あの地方の薬師の名前。日付は施行十八日目——昨日の午後だった。


 その後ろに綴じられた台帳の副本をめくった。


 監査局が原本を受理した際に、提出者控えとして作成された写し。搬入時刻と認可番号が、一行ごとに正確に対応している。数量に端数の丸め処理まで記載されており、余白の数字——通常は記入しない参考値——までが揃っていた。


 原本がこの通りであるなら、完璧な台帳だった。


 そして副本の最終頁、備考欄に一文だけ添えられている。


「第三窓口の前任の方は、余白の数字まで先に見ておられましたが」


 *


 ユースはその一文から目を離し、表紙の受領印に戻った。


 施行十八日目。昨日の午後に監査局が受理している。


 つまり、法務局が流通管理課に照会を入れた今朝の時点で、監査局にはすでに薬師側の完璧な台帳が届いていた。


 流通側に責任を移すための照会は、届く前から空振りだった。


 搬入時刻は台帳の通り。流通管理課の処理に遅延はない。ずれていたのは、特例認可の時刻のほうだ。


 台帳がそれを、数字で証明している。


 *


 配送係がまだ立っていた。


 何か言いたそうだったが、ユースが顔を上げると、少し口ごもってから言った。


「……法務局の方が一人、医務室に行かれたそうです」


 ユースはうなずいた。


「お疲れさまです」


 配送係は今日も、何か言いかけて閉じて、会釈して出ていった。


 *


 提出記録と台帳副本の綴じ書類を、帳票棚の正規位置に収納した。辺境砦の回答と同じファイルの、隣のスリーブ。


 閲覧権限者であれば、誰でも手に取れる。


 窓の外を見た。


 渡り廊下の人影は、また消えている。昨日の夕方と同じだ。処理室に全員が閉じ込められている——いや、今日は一人減っている。


 *


 メモ用紙を裏返した。


 午前に書いた閲覧申請票番号の横に、小さく一つだけ書き足す。


 明日の閲覧対象の台帳記号。


 まだ、三通目は届いていない。


 だが、届く頃には——


 ユースはペンを置いた。


 窓の外で、本棟二階の灯りが今夜も消えない。


 昨日と同じ光。


 だが昨日と違うのは、あの光の下にいる人間が、もう逃げる場所を二つ失っていることだった。

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