第28話「最初の逃げ道を塞ぐ」
施行十八日目。
朝の鐘が鳴る前に、ユースは閲覧室の椅子に座っていた。
前日に申請した台帳が机の上に二冊。記録管理棟の係が、開棟と同時に配架してくれたものだ。
一冊を開く。昨日までの数字の続き。白紙メモの余白はもう表にほとんど残っていない。
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窓の外、渡り廊下に人影が動いた。
まだ朝の鐘が鳴ったばかりだというのに、本棟へ向かう職員の足が速い。一人、二人ではない。三人が続けて同じ方向へ走っていく。
昨日の倍だった。
ユースは台帳に目を戻した。
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午前の鐘が鳴る頃には、中庭越しの音が変わっていた。
昨日まで処理室から漏れていたのは怒声だった。今日は違う。声が重なっている。複数の人間が同時に喋り、そのどれもが相手の返事を待てていない。
渡り廊下を通る職員の手には、昨日まで見なかった種類の封筒があった。
軍用連絡便の封緘だ。
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配送係がやってきたのは、午前の鐘から少し過ぎた頃だった。
いつもの定例便ではない。今朝は順番を変えて閲覧室を先に回ったらしい。
「グレイナーさん、今日の追加配架はありませんが」
それだけなら一言で済む。だが配送係は出ていかず、声を落とした。
「法務局の処理室、今朝から大変なことになってます。処理室の前を通ったら、扉が開いたまんまで。何人か怒鳴り合ってて——『辺境砦』とか『数字が合わない』とか聞こえました。軍用便の封緘が机に積まれてたから、砦から何か届いたんだと思います」
ユースはメモから目を上げなかった。
辺境砦から、法務局へ直接。
記録確認照会の回答とは別に、だ。
辺境砦の担当官は、ユースへの記録確認回答を作成する過程で、自分の手元の出庫台帳と法務局側の承認番号が一日ずれていることに気づいたはずだった。
回答をユースに送った。それは記録確認照会への返答だ。
だがそれとは別に、管轄として——自分の砦の記録に不整合がある以上、その原因を法務局へ問い合わせるのは担当官の正規の職務だった。
ユースが頼んだのではない。
正確な記録を持つ人間が、自分の職責に従って動いた。それだけだった。
「ありがとうございます」
配送係が出ていった後、ユースは窓に目を向けた。
本棟二階の窓が今日は三つ開いている。昨日は一つだった。
声の質が変わったのは、処理室の人員が対応に追われ始めたからだろう。辺境砦の正式照会は、無視も放置もできない。砦は前線を預かる王国正規機関であり、その照会に対する回答期限は規程で定められている。
ギデオンが切り捨てようとしていた案件の端が、外側から縫いとめられた。
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午後。
ユースは閲覧済みの台帳二冊を抱え、閲覧室を出た。
まず東棟一階の記録管理棟へ降りる。一冊目を受付の返却棚に戻した。受付係が無言で受領印を押す。
残る一冊は別棟の書庫からの取り寄せ品で、返却先は渡り廊下を経由した先の中央書庫だった。
渡り廊下に出ると、中庭の空気が冷えていた。
午後の陽は本棟の壁に当たり、東棟側には影が落ちている。石畳に足音が反響する。自分のものだけだった。
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本棟側の扉が開いた。
先に出てきたのは二人の部下だった。顔色が悪い。片方は書類の束を胸に抱えて小走りに階段を降りていき、もう片方はその場で立ち止まって壁に手をついた。
その後ろから、ギデオン・ヴァルカスが出てきた。
初めて近くで見た。
温厚そうな顔立ちだと聞いていた。確かにそうだった。だが今、その温厚さは薄い膜のようなもので、下にある苛立ちが目元に滲んでいる。
ギデオンの目がユースを捉えた。
一瞬、足が止まる。
ユースは止まらなかった。台帳を片手に、渡り廊下の中央を歩いている。すれ違うだけだ。
ギデオンが口を開きかけた。何か言おうとしたのか、それとも部下への指示の続きだったのか。
ユースはその横を通り過ぎながら、視線を前に向けたまま言った。
「辺境砦の照会に部分修正で応じると、監査局が明日動きますよ」
足は止めない。
声は廊下の石壁に軽く反響して消えた。
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後ろで、靴音が止まった。
ギデオンのものだった。
ユースは振り返らなかった。渡り廊下を抜け、中央書庫の受付に台帳を返し、来た道を戻った。
戻る時には、渡り廊下にはもう誰もいなかった。
本棟二階の窓から、声は聞こえなくなっていた。
静かになったのではない。声を出す余裕がなくなったのだ。
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閲覧室に戻ると、午後の陽が窓枠の影を机に落としていた。
ユースは椅子に座り、白紙メモを取り出した。
裏面に数字を一つ書き足す。
表の余白が尽きかけていた。
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夕方の鐘が近づく頃、配送係が三度目の訪問をした。
今度は配架物も郵便物もない。ただ通りがかりに、という体で閲覧室の戸口に立った。
「グレイナーさん」
「はい」
「監査局から、法務局特例処理室に文書が届いたそうです。予備照会、って言ってました」
配送係の声は小さかった。
「処理室の人たち、さっきまで辺境砦の照会にどう答えるかで揉めてたんですけど——監査局からも来たって聞いて、廊下で誰も喋らなくなりました」
ユースは頷いた。
「お疲れさまです」
配送係は少し口を開きかけて、閉じて、小さく会釈して出ていった。
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窓の外。
本棟二階の灯りは今日も消えない。
だが昨日と違うのは、渡り廊下を行き来する人影がなくなっていることだった。全員が処理室に閉じ込められている。
辺境砦の正式照会は、部分修正では応じられない。
監査局の予備照会は、修正の痕跡そのものを追う。
二つが同じ日に重なった。
昼間、渡り廊下で伝えたことは、助言ではない。
あれは事実だった。
部分修正を行えば、その修正記録は台帳に残る。台帳の改変は監査局の予備照会の対象に含まれる。辺境砦への回答と修正台帳が同時に監査局の目に触れれば、照合は自動的に始まる。
ギデオンが辺境砦の件を切り捨てるか、部分修正で凌ぐか——どちらを選んでも、もう片方が塞がっている。
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ユースは帳票棚を見た。
昨日収納した辺境砦の回答、薬師組合の台帳写し。帳票の間に挟んだセフィアの紙片。
正規の場所に、正規の手続きで収められた記録。
閲覧権限を持つ者であれば、誰でも手に取れる。
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古いメモ用紙を脇へ寄せた。表にはもう余白がない。
新しいメモ用紙を一枚切り、表に日付だけ記入した。施行十九日目。
裏返して、明日の閲覧申請票の番号を書き込む。
まだ、三通目は届いていない。




