第27話「盤面外の協力者」
施行十七日目。
朝の鐘が鳴る前に、ユースは閲覧室の机に着いていた。
昨日までと同じ席。昨日までと同じ灯り。窓の外はまだ薄暗く、東棟の廊下には人の気配がない。
机の上には、昨夜のうちに閲覧申請を出しておいた台帳が置かれていた。記録管理棟が開棟と同時に配架したものだろう。
昨日の続きを開いた。
数字を追いながら、ユースは三日前のことを考えていた。
*
施行十四日目の朝。
ユースは記録確認照会票を三枚書いた。
様式は、記録管理部門が外部機関へ「保有記録の正確性を確認する」ために使う、ごく一般的な事務帳票だった。
決裁ではない。指示でもない。介入でもない。
記録管理上の確認照会。閲覧権限に付随する、最低限の事務行為。
越権防止命令の対象外だった。
一枚目。宛先は辺境砦・記録管理担当。
二枚目。宛先は地方薬師組合・流通台帳管理担当。
三枚目。宛先は——書式が少し違った。魔王軍側の補給契約照会用の旧様式だった。宛先欄には「魔王軍補給将府・記録管理部門」とだけ記した。
三枚とも、本文は同じだった。
「貴機関が保有する下記期間の記録について、正確な写しをご提出ください」
それだけだ。
補足説明もない。理由の欄には「記録整合確認のため」とだけある。添付書類は不要。返送先は東棟二階・記録閲覧室。
違法工作でも、密約でも、告発でもない。
ただ「手元の記録を、正確なまま出してください」と頼んでいるだけだった。
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これが武器になるのは、一つだけ条件がある。
相手が応じてくれること。
記録確認照会は、受け取った側に提出義務がない。強制力もない。閲覧権限しか持たない臨時整理要員からの照会票など、無視されても文句は言えない。
だが——
ユースは照会票を封筒に入れ、宛先を書き、記録管理棟の内部発送棚へ持っていった。
辺境砦への便は、軍用の定期連絡便に載る。王都から砦まで片道一日半。薬師組合への便は地方定期便で同程度。魔王軍側は旧様式の手続きを経るため、さらに日数がかかる。
発送棚に封筒を三つ、置いた。
それだけのことだった。
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あれから三日。
ユースは台帳の数字を追いながら、セフィアの席を横目に見た。
空だった。
ペン立てだけが残っている。彼女が使っていた照合用の赤い付箋紙はもうない。教会本棟の地下二階に持っていったのだろう。
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午前中は何も起きなかった。
台帳を読んだ。数字を追った。白紙メモの余白が、また少し減った。
昼を過ぎても何も起きなかった。
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最初に届いたのは、午後二時だった。
記録管理棟の配送係が、閲覧室の扉を叩いた。
「ユース・グレイナー殿宛て。辺境砦より、記録確認照会への回答です」
茶封筒だった。封蝋は辺境砦の紋章。開封すると、中には前線補給記録の写しが三枚と、砦側の出庫台帳の抜粋が一枚入っていた。
軍用連絡便で往復三日。
砦側は照会を受け取ったその日のうちに記録を引き、写しを作成し、翌朝の連絡便に載せたことになる。
異例の速さだった。
ユースは記録を一枚ずつ読んだ。
補給品の搬入時刻。出庫の起票番号。承認番号との照合欄——そこに、法務局特例処理室が発行した承認番号と、砦側で受領した承認番号の間に、一日分のずれが記されていた。
ユースの表情は変わらなかった。
だが、最後の一枚の末尾に、手書きの一文が添えられていた。
「なお、前の第三窓口担当であれば、この確認をこちらへ投げる前に終わらせていたものと思料します」
ユースは封筒の裏に、回答日時だけを書いた。
それ以上は何もしなかった。
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二通目が届いたのは、夕方に差しかかる頃だった。
配送係が再び扉を叩いた。手にはやや厚い封筒がある。
「地方薬師組合から、記録確認照会の回答です」
ユースが封筒を受け取ると、配送係はすぐには去らなかった。少し迷ってから、声をひそめた。
「……法務局の特例処理室、えらいことになってますよ。辺境砦の照会の返答期限が今日だったらしくて。それと薬師組合から搬入時刻の件で問い合わせも来たとか」
ユースは封筒を机に置いた。
「そうですか」
それだけ返した。
配送係は何か言いたげな顔をしたが、結局そのまま頭を下げて閲覧室を出ていった。
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封筒を開けた。
中には治療薬の流通台帳の写しが入っていた。過去六ヶ月分。搬入日時、出庫先、承認番号、受領印の日付——すべて正確に転記されている。
あの薬師は、流通許可を得て以来、台帳を常に整えてあったのだろう。照会を受けてから写しを起こすのではなく、いつでも提出できる状態を保っていた。だからこの厚さでも三日で届いた。
ユースはその中から、施行十二日目以降の搬入記録だけを抜き出した。
特例処理が始まった後の期間だ。
承認時刻と搬入時刻を並べる。
ずれていた。
承認は午前九時。搬入記録は午前七時。承認が出る二時間前に、物資が届いていることになっている。
通常であれば、あり得ない。承認が先で、搬入が後。それが正しい順序だ。
だが「全部通す」ために承認を一括処理した結果、時刻の前後が逆転している案件が複数ある。
薬師組合の担当者は、台帳の余白に小さく書き添えていた。
「以前、第三窓口にて流通許可をいただいた際は、搬入時刻との整合まで事前にご指摘いただきました。今回の記録をご確認のうえ、何かございましたらご連絡ください」
丁寧な文面だった。だが行間には、はっきりとした信頼がある。
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ユースは辺境砦の回答と薬師組合の台帳を揃え、閲覧室の帳票棚へ収納した。
記録確認照会の回答文書。記録管理上の正規ファイル。閲覧権限を持つ者なら、誰でも見ることができる。
三通目はまだ届いていなかった。
魔王軍側の照会は、旧様式の手続きを経る。通常なら五日から七日はかかる。
だが、ユースは急いでいなかった。
辺境砦と薬師組合の記録だけで、すでに「特例処理の承認時刻と現場記録が噛み合っていない」ことは証明できる。
問題は、それを誰が見るか、だ。
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ユースが見ることはできる。だが、ユースには決裁権限がない。
差戻しも、却下も、監査要請もできない。
できるのは、記録を正確に揃え、正確な場所に置くこと。
それだけだ。
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閲覧室の窓から、中庭を挟んだ向かいに本棟が見える。
配送係が言っていた通りだった。
二階の法務局特例処理室の窓が開いていた。夕方の空気を入れるためだろう。だが聞こえてくるのは風ではなかった。
声だった。
中庭の石畳に反響して、言葉にはならない。だが怒声であることは分かる。一人ではない。複数の声が重なり、途切れ、また重なる。
しばらくして、渡り廊下を早足で横切る職員の姿が見えた。書類の束を胸に抱え、顔が青い。
続いてもう一人。こちらは逆方向から渡り廊下に入り、処理室の方角へ走っていった。
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夕暮れの鐘が鳴った頃、配送係がもう一度来た。
今度は小さな紙片だった。教会本棟の内部便箋。宛先はユース個人。差出人の欄には名前がなく、照合特務室の部署印だけが押されている。
セフィアからだった。
紙片には、文章はなかった。数字だけが書かれていた。
二つ。
施行十二日目以降の教会側治療認可件数と、広域照合記録上の搬入確認件数。
並べて書かれた二つの数字は、一致していなかった。
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ユースはその紙片を机に置いた。
それから帳票棚へ歩き、先ほど収納した辺境砦の回答と薬師組合の台帳写しを取り出した。
机の上に三つを並べる。
辺境砦。承認番号のずれ。
薬師組合。承認時刻と搬入時刻の逆転。
セフィア。教会側認可件数と搬入確認件数の不一致。
別の場所で、別の人間が、別の台帳を開いている。
だが見ている数字は同じものを指していた。
「全部通っている」はずの案件の裏側で、記録だけが静かに矛盾を積み上げている。
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ユースは三つの書類を揃え、帳票棚へ戻した。
紙片は帳票の間に挟んだ。
それから白紙メモを取り出し、裏面の余白に、明日の閲覧申請票の番号を書いた。
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中庭越しに見える本棟二階の窓は、まだ明るかった。
法務局特例処理室の灯りが今日も消えない。
照会は昨日、百三件だった。
今日、外から届いた記録が加わった。
明日はもっと増える。
そしてまだ、三通目が届いていない。




