第26話「全部通る、だから危ない」
施行十六日目。
閲覧室の窓から差す朝日が、帳票棚の背表紙を順に照らしていく。ユースはその光が自分の机に届く前に、七年前の補給認可台帳を棚から引いていた。
昨日までの数字は白紙の左半分を埋めている。六列と少し。今朝はその続きを書く予定だったが、廊下の空気がいつもと違った。
足音が多い。
普段この時間帯、東棟二階は静かだ。記録管理の職員が数人、帳票の出し入れをするだけで、閲覧室に人が来ることはほぼない。だが今朝は廊下を行き来する靴音が途切れず、声も混じっている。
「——全件、承認完了だそうだ」
「補給も?」
「補給も通行も治療も。勇者案件は全部だ」
声は遠ざかった。ユースは台帳の頁をめくる手を止めなかった。
*
九時の鐘が鳴った後、ユースは記録管理区画へ向かった。新しい閲覧申請票を取りに行くためだ。
区画の入口手前に掲示板がある。
法務局特例処理室からの業務報告が貼られていた。日付は今朝。承認済み案件の一覧がずらりと並び、その末尾に——
『照会累計:施行十六日目午前八時時点 一〇三件(前日比+六)』
百を超えた。
ユースは数字を読み、視線を一覧表の中ほどへ移した。
承認番号の採番が飛んでいる。
七十四番の次が七十六番。一件抜けている。差戻しか取り下げか、あるいは再起票で番号が振り直されたか。どれにしても、処理室の中で帳票が一度戻っていることを意味する。
百三件の承認。そのうち何件が、受理されるべき形で受理されたのか。
ユースは閲覧申請票の束を受け取り、区画を出た。
*
中央庁の本棟と東棟をつなぐ渡り廊下で、声が聞こえた。
「——だから言っただろう。窓口の小役人がいなくても回るんだ」
聞き覚えのある声だった。
渡り廊下の反対側から、アルヴェイン・クロスが歩いてくる。背が高い。朝日を背に受けて、金の装飾が光っていた。両脇に従者が二人。手には補給品の目録らしき書類を持っている。
ユースは廊下の端に寄った。
すれ違う直前、アルヴェインの視線がユースを捉えた。
一瞬だけ足が止まる。
だがすぐに口元が歪んだ。勝者の表情だった。窓口証を置いて去った男が、今は閲覧室で埃臭い台帳を読んでいる。それだけの存在に成り下がった——そういう確信が、隠しもせず顔に出ていた。
「おい」
アルヴェインは足を止めた。
「お前がいなくなって、むしろ物事がよく回ってるぞ。補給も治療も、今朝全部通った」
ユースは足を止めなかった。
「上の人間が手を打てば、こんなもんだ。お前みたいなのが偉そうに書類を止めてただけなんだよ、最初から」
閲覧申請票の束を抱えたまま、ユースは渡り廊下を歩き続けた。
アルヴェインの声が背中に届く。
「聞いてんのか」
「聞いています」
振り返らなかった。
「承認おめでとうございます」
それだけ言って、東棟の扉をくぐった。
*
昼前。
閲覧室に戻ったユースは、台帳を開いたまま、別の記録簿を請求した。
治療認可の月次集計。施行十三日目以降の分。
通常、この手の集計は翌月末に整理される。だが特例処理下では、処理室が週次で中間報告を出す。その写しが記録管理区画に回っている。
ユースは集計表を受け取り、数字を追った。
施行十三日目——承認十二件。
施行十四日目——承認十九件。
施行十五日目——承認二十三件。
施行十六日目午前——承認十四件(半日)。
数は増えている。確かに「全部通っている」。
だが集計表の右端に、備考欄がある。
施行十五日目。備考。「優先区分の逆転に関する教会側問い合わせ 二件」。
施行十六日目午前。備考。「搬入伝票との時刻不一致に関する照会 三件」。
ユースは備考欄の数字だけを白紙に書き写した。
承認件数は増えている。備考欄の件数も増えている。
台帳を閉じた。
窓の外で、馬車が通る音がした。補給馬車だろう。今朝承認された分の搬送が始まっている。
*
午後。
ユースは五年前の治療認可台帳を閲覧するため、記録管理区画へ二度目の移動をした。
本棟と東棟の渡り廊下を抜け、本棟一階を通る。法務局特例処理室は本棟二階の東寄りにある。その直下の廊下を歩いていると、天井の向こうから声が漏れてきた。
木造の床板は音を通す。
「——だから聞いてるんだ、全部通したんだろう! なんで倉庫が止まってる!」
怒鳴り声。ギデオンの部下のものではない。もう一つ上の、処理室を管轄する係の声だ。
「通してます。承認は出てます。ですが伝票番号が——」
「番号がなんだ」
「旧様式の連番と、特例処理の新番号が——同じ補給品目に二つの番号が振られていて、倉庫側がどちらの伝票で出庫すればいいか判断できないと——」
「そんなの現場で合わせろ!」
「合わせようとしたんです。ですが承認時刻と搬入時刻がずれて、教会の優先順が逆転してしまっていて——重傷者向けより先に軽傷者向けの物資が出庫されて、教会側から抗議が——」
「それは教会の問題だろう」
「教会は、承認時刻を出したのはこちらだと——」
声が重なり、聞き取れなくなった。
ユースは足を止めずに廊下を抜けた。
*
記録管理区画で五年前の台帳を受け取り、東棟へ戻る。
渡り廊下の途中で、宿場街の方角から馬車が一台、中央庁の正門へ向かうのが見えた。
荷台は空だった。
今朝、補給の全件承認が出た。承認直後に積み出された馬車のどれかだろう。だがこの時間に空で戻ってくるのは早すぎる。届け先で荷下ろしが済んだのではなく、届け先で荷受け番号を照合できなかったか。
ユースは渡り廊下の窓枠に手をついた。
空の荷台が正門をくぐる。
門番が首をかしげている。出庫記録と帰着時刻が合わないのだろう。
*
閲覧室に戻ると、誰かが入口の前に立っていた。
若手職員だった。
施行十三日目、ユースが廊下ですれ違いざまに補給束の不備を指摘した、あの職員だ。あのとき言った通り、翌日に砦から照会が来た。それ以来、この職員はときどき閲覧室の前に立つ。中に入ってくることは稀だが。
今日は入口の柱に背を預けて、書類を一枚持っていた。
「……すみません」
ユースは閲覧室の扉を開けた。
「閲覧中です。何か」
「その、業務の相談ではなく——」
声が小さい。越権防止命令のことを知っているのだろう。ユースに業務相談をすれば、ユースが現場判断に介入したと見なされかねない。
「個人的な疑問です」
ユースは机に台帳を置き、椅子に座った。振り返らない。
「今朝、勇者案件の承認が全件出ました」
「掲示板で見ました」
「補給も、通行も、治療も。全部通りました」
「そうですか」
「でも——」
若手職員は書類を持つ手を下ろした。
「倉庫が荷を出せないんです。出庫伝票の番号が二重になっていて、どちらが正本か分からないと。宿泊精算も、旧様式で申請したものと新様式で承認されたものが混在して、宿側が受け付けられないと。教会も、治療の優先順が昨日と今日で入れ替わっていると」
廊下から差す午後の光が、若手職員の書類の端を照らしていた。
「全部通っているのに、現場だけが止まるんです。理由が分からなくて」
ユースは五年前の台帳を開いた。
起票番号の列を指で追い、三頁目で止まった。
「通したからです」
若手職員が息を止めた。
ユースは台帳から目を上げなかった。
「正しく通していないので」
その一文は、閲覧室の静けさの中に落ちて、染みた。
若手職員は何かを言いかけ、やめた。書類を胸に抱えて一礼し、廊下へ出て行った。
*
夕方。
閲覧室に西日が差し込む。帳票棚の影が長く伸びて、ユースの白紙メモの上に届いた。
今日書き加えた数字は四つ。
備考欄の照会件数。承認番号の欠番。搬入伝票の時刻差。そして五年前の台帳から引いた、ある年の補給起票番号の並び順。
全部合わせても、白紙の三分の二が埋まっただけだ。
まだ足りない。
だが、足りないのはユースの数字ではない。
法務局特例処理室が「全部通した」ことで、現場には今、承認済みなのに動けない案件が積み上がり始めている。承認は出ている。権限も発行されている。だが伝票の整合、様式の統一、時刻の順序、優先区分の接続——それらを調整していた人間が、もういない。
誰も気づいていないだけだ。
全部通っていることが、一番危ない。
ユースは白紙を裏返した。
裏面に、一行だけ書いた。
閲覧申請票の番号。まだ使っていない請求番号だった。
明日請求する台帳の番号を、今日のうちに決めておく。
それだけのことだ。
*
中央庁の鐘が六時を打った。
閲覧室の窓を閉め、台帳を棚へ戻し、白紙メモを帳票の間に挟む。
セフィアの席はまだ空だった。
昨日も空だった。明日も空だろう。教会本棟の地下二階で、彼女は今、過去五年分の治療認可の広域照合記録を読んでいるはずだ。
ユースが今日集めた数字と、セフィアが今読んでいる記録。
それぞれ別の場所で、別の台帳を開いている。
だが見ているものは同じだ。
「全部通っている」という異常を、数字の側から。
ユースは閲覧室の灯りを消した。
廊下に出ると、法務局特例処理室のある本棟二階の窓だけが、まだ明るかった。
照会は今日、百三件になった。
明日はもっと増える。承認すればするほど増える。正しく通していないものは、通した数だけ後から返ってくる。
ユースは東棟の階段を降りた。
足音だけが響く。




