第33話「こんな書類の屁理屈が通るか」
施行二十三日目。
朝の鐘が鳴る前に、ユースは目を開けていた。
閲覧室の窓から、夜明けの薄い光が差し込んでいる。渡り廊下の向こう——本棟二階、処理室の窓。
暗い。
昨夕から変わらない。灯りは点いていなかった。
ユースは椅子に座ったまま、机の上の書類に視線を落とした。三枚組の書面。革紐。傾いた朱印。
昨日と同じ位置に、同じ角度で置かれている。誰も触れていない。ユースも触れなかった。
朝の鐘が鳴った。
廊下に足音が増え始める。いつもの朝と同じ——ではなかった。足音の密度が違う。通常より多い。そして、速い。
配送係の青年が閲覧室の扉口で立ち止まった。息が上がっている。
「あの、臨時整理要員殿——」
「どうぞ」
「処理室から、廃棄箱が三つ出されています。法務局の方が書庫に入って、今朝だけで四回目の——」
「ありがとうございます」
ユースはそれ以上聞かなかった。配送係が去った後も、表情は変わらなかった。
廃棄箱が三つ。書庫に四回。
あの処理室が動いている。灯りは消えたままなのに、中の人間は止まっていない。
それはつまり、ギデオン・ヴァルカスが——昨夜から今朝にかけて——自分が署名した書類の意味を、ようやく理解し始めたということだった。
*
午前の業務時間に入った。
ユースは机の上の署名済み書類を見た。
これは閲覧記録ではない。受理済みの監督記録だ。閲覧室の帳票棚に入れるべきものではなく、本来の保管先は本棟一階——第三窓口の監督記録保管棚になる。
越権防止命令は、ユースの「現場判断への介入」を封じている。だが受理済み書類の物理的な移送は、庶務行為だ。判断ではない。
ユースは書類を手に取り、閲覧室を出た。
渡り廊下を渡る。本棟へ入る。階段を降りる。
一階の空気が違った。
いつもは淀んで静かな窓口フロアに、妙な緊張が混じっている。第三窓口の仮担当者——ギデオンの権限再編以降に配置された若い職員——が、カウンターの向こうで帳票を前に固まっていた。
ユースは声をかけなかった。カウンター裏の監督記録保管棚を開け、署名済み書類を所定の位置に収めた。
それだけのことだった。
背後で、仮担当の職員が小さく声を漏らした。
「——あの、臨時整理要員殿。今朝から、端末の表示が……」
「私には権限がありません」
「はい。……はい」
ユースは保管棚を閉じた。
その時だった。
廊下の奥から、足音が聞こえた。一人ではない。複数。だが主導しているのは一人だけで、残りは追いすがるように後ろをついている。
足音の主が、窓口フロアの入口に現れた。
ギデオン・ヴァルカス。
上着を着ていなかった。シャツの襟が片方だけ潰れている。目の下の隈は昨日より深い。三日分の疲労が、その顔に全部載っていた。
だが目だけが、異様に冴えていた。
「——君は」
声が掠れていた。
「最初から、これを狙っていたのか」
ユースは答えなかった。保管棚の前に立ったまま、ギデオンを見ていた。
ギデオンが一歩踏み出した。部下が二人、その後ろで立ち止まっている。一人は書類の束を抱えたまま、もう一人は手が震えていた。
「事後包括特例承認。旧監査救済様式。あの書式は——確かに法的には有効だ。廃止されたのは雛形の配布だけだ。私はそこまで確認した」
ギデオンの声は、説明ではなかった。確認だった。自分がどこで嵌められたのかを、一つずつ言語化している。
「だが、あの書式で受理された承認が神代規程の禁則に抵触するなど——現行の運用手引きのどこにも記載されていない」
「記載されていません」
ユースが初めて口を開いた。
「現行の手引きには、載っていません」
その一言で、ギデオンの顔から最後の色が消えた。
現行には載っていない。つまり、現代法の知識だけでは辿り着けない場所に——罠があった。
「……いつからだ」
「いつから、とは」
「いつから——私を、ここへ誘導していた」
ユースは少しだけ間を置いた。
「誘導はしていません」
それは嘘ではなかった。ユースは何一つ偽造していない。何一つ強要していない。帳票の綴じ位置を正しく戻し、台帳のページ順を揃え、補給起票票の端に正しい印を入れた。それだけだ。
正しい記録を、正しい場所に置いた。
逃げ道を塞いだのは、辺境砦と薬師とドレヴァンと教会の、それぞれ正確な記録だ。署名を選んだのは、ギデオン自身だ。
「あなたは、ご自分で選ばれました」
ギデオンの唇が白くなった。
部下の一人が、抱えていた書類の束を取り落とした。紙が床に散らばる音が、窓口フロアに反響した。
その音を追うように——もう一つの足音が来た。
重い。速い。怒りを載せた足音だった。
窓口フロアの正面入口から、長身の影が踏み込んできた。
アルヴェイン・クロス。
光焔の勇者。
華やかな外套が乱れている。顔は紅潮し、目は血走っていた。その後ろには誰もいない。僧侶も斥候も武闘家も、今日はついてきていなかった。
「ギデオン!」
怒号が窓口の壁を震わせた。
「何が起きている! 昨日まで通っていた補給伝票が、今朝から全部止まっている! 宿の精算も蹴られた! お前が全部通すと言っただろう!」
ギデオンは振り返らなかった。
振り返れなかった、というほうが正しいのかもしれない。ユースにはそう見えた。
「……もう、手遅れだ」
「何が手遅れだ!」
アルヴェインがギデオンの肩を掴んだ。ギデオンの体が揺れる。疲弊しきった法務官僚の体は、勇者の腕力に抗えなかった。
「お前が条文で全部片付けると言ったんだ! 窓口は怒鳴って突破するものじゃない、条文で無力化するもんだと——」
「そうだ。私はそう言った」
ギデオンの声が、急に静かになった。
「そして、条文で負けた」
アルヴェインの手が止まった。
意味が、入っていない。ユースにはわかった。アルヴェインの目に浮かんでいるのは理解ではなく、拒絶だった。
「……何を言っている」
「事後包括特例承認が、受理された。それにより——」
「知るか! そんな書類の名前なんか聞いたことがない!」
アルヴェインがギデオンを突き放した。
そして——ユースを見た。
窓口カウンターの裏。監督記録保管棚の前に立つ、灰色の髪の青年。地味で、目立たなくて、制服に乱れ一つない。
追放した日と、同じ顔をしていた。
「お前か」
アルヴェインの声が、低くなった。
「全部、お前がやったんだな」
ユースは答えなかった。
「追放されて——俺を恨んで——裏からこそこそ書類を弄って——」
「書類は弄っていません」
「黙れ!」
声が反射した。窓口フロアの天井に当たり、壁に跳ね返る。仮担当の職員が椅子ごと後ろへ下がった。ギデオンの部下が壁際に退いた。
アルヴェインが一歩、踏み出した。
「お前みたいな窓口の下っ端が、書類の屁理屈で——」
もう一歩。
「俺を——光焔の勇者を——」
さらに一歩。カウンターの横を回り込み、ユースとの距離が縮まる。
空気の温度が変わった。窓口フロアの灯架の明かりが、一瞬ちらついたように見えた。
「こんな書類の屁理屈が通るか!」
アルヴェインの右手が、腰の鞘に伸びた。
指が柄を掴む。関節が白くなるほどの力で。
その手を——ユースは見ていた。
鞘に手がかかった瞬間、ユースの左手が胸ポケットに触れた。
黒銀の万年筆。
折られて、修繕されて、今もここにある。
両親の形見。監督補佐官級に支給された記録具の改修型。
万年筆を抜き出しながら、ユースの右手の親指が尻軸の端を探った。精緻な嵌合の線——装飾だと思われていた継ぎ目に、爪がかかる。
「緊急監督執行——」
声は静かだった。怒鳴り声でも、叫びでもなかった。窓口で申請を処理する時と、同じ声だった。
ギデオンが叫んだ。
「やめろ——ここは窓口だ!」
聞こえていなかった。
金属が鞘を滑る音が重なった。高く、鋭く、乾いた音。
聖剣が抜かれた。
使用認可が停止されている聖剣。光を失った刃。だが鉄塊としての質量は健在で、振り下ろされれば人間の骨など容易く断つ。
停止中高位武具の無認可抜刀。窓口内暴力。保護対象職員への加害。
そして——事後包括特例承認による禁則条項の発動。
四つが、一つにつながった。
アルヴェインが聖剣を振りかぶる。窓口フロアの空気が震える。仮担当の職員が悲鳴を上げた。ギデオンの部下の一人が膝から崩れた。
ユースは動かなかった。
万年筆を手にしたまま、刃を見上げていた。
「——発動条件を確認しました」
光を失った刃が、振り下ろされる。




