Episode81/ー嵐(雷雨)ー
(??.)
杉井豊四希が買い物を終えてスーパーから外に出たときには、ぽつらぽつらとしか降っていなかった雨粒の激しさが増していた。
妻ーー杉井裕美花が夕飯に使う味噌を切らしていたことに気づき、味噌とついでに細々とした物を買ってきてほしいと頼まれた杉井豊四希は、久しぶりに自宅から徒歩で10分強歩くスーパーまで買い物に出掛けていたのだ。
傘を差して数分歩いていると、更に雨脚が強まり、空の機嫌が悪くなる。すぐに豪雨へと変わってしまった。
これでは傘を差していても濡れてしまうなーーと思っていた杉井豊四希の後ろから、速度を出して走る車の音が近づくと、突如急ブレーキをかけ、けたたましいタイヤの音が辺りに鳴り響く。
「危ないな……ん?」
杉井豊四希の後ろ辺りで停車した車の後部座席のドアが開き、ヘルメットを被る黒い服を着た身長差も年齢層も異なる男女三名が一斉に降車する。
その男女は、皆片手にバールや鉄パイプのような長物を握り、普通ではない雰囲気を放っていた。
三人ーー男二人と女一人は、皆が皆、杉井豊四希を走り歩きで囲むように動き出す。
「な、なんなんだ? きみたちは」
ふと、杉井豊四希の脳裏に“闇バイト”の四文字が浮かび上がる。
杉井豊四希は身の危険を感じ、逃げようとするが、一番背の高い男に腕を強い力で掴まれ引っ張られてしまう。
「騒ぐなよ? おとなしく車に乗れ。後部座席だ。助手席にはこいつを乗せる」と、男は女らしきヘルメットを被る人物を指差す。
周りにひとはいない。普段ならちらほら散歩している老人や会社帰りのサラリーマンも歩いているが、不幸にも辺りに人の姿は窺えない。
男たちは、ひとのいないタイミングを見計らい、杉井豊四希に近づいたのである。
とはいえ、たとえ周りに一人二人のひとがいようと構わない。そういった思考の者たちの集まりだった。
「最近ニュースでも問題になってるあ……あれだろあれ! 考え直しなさい! 誰からめいれーーぐぅっ!?」
ヘルメットの女より背の低い男が、杉井豊四希を乱暴に鉄パイプで殴りつける。
杉井豊四希はくぐもった声を漏らし、痛みで猫背のように身体を丸めながらふらつく。
「黙れやおっさん。とろとろすんなやおいくそボケこらああっ!?」
「ちょっと、あまり騒がないでよ」
騒ぐ背の低いヘルメット男の声はまだ若い。もしかしたら、まだ未成年者の可能性だってあるーーそう杉井豊四希は痛みに耐えながらも思う。
辺りには、闇バイトらしき男女以外、一見だれも見当たらない。
杉井豊四希は、今は言われた通りにするしかないと、思考を切り換えた。
だが、実は一人の男が三人組に忍び寄っていた。
そう。“一見”すると、であり、実際にはひとりの男が走り寄っていたのである。
「たしかにとれぇよな~。テメーらがーー」
「ーー!?」
背の低い男の背後から、頭上へ長い刃物が突き出るかのように周りからは見えた。
わざと屈んでいた男が脚を伸ばすと共に跳ぶ。日本刀を持つ男の姿が皆の視界に現れる。
「ーーなァ?」
その日本刀が、若そうな男のヘルメットを避けた箇所ーー右肩を叩き潰すかのごとき力で、声を出した男によって振り下ろされた。
杉井豊四希とヘルメットを被る男女の視界に、辺りに血を噴出しながらばたりと倒れた若い声の男。そして、今しがたその男を斬り倒した、頬に謎の図形か模様のタトゥーを入れている不気味な男ーー八月一日凪の姿が映った。
八月一日凪は、若いヘルメット男を背後から日本刀で叩き斬ったのだ。
その顔には、余裕そうなにやけ面を浮かべている。
「ひ、ひとを、こーー」
「やっぱ重えわこれ。清水さん、よくこんなモン振り回せるよな? なあ、愉快なお二人さん」
八月一日凪は日本刀をあっさり地面に捨てると、倒れたままピクリとも動かない男を足蹴に、立ち尽くしたまま呆然とする二人に歩き寄る。
「だ、誰だおまえ!?」
「こんな話聞いてないわよ!」
「アァ……聞いてない? 誰に?」
八月一日凪は女が漏らした言葉に、敏感に反応を示す。
「ーーっ!?」
女は押し黙り、失敗したかと焦りはじめる。
数分の間に暴漢に拉致られそうになったかと思えば、見知らぬ危険な匂いを漂わせる男が闇バイトだと考えていた相手を斬り倒すーー事態がころころと移り変わるせいで、杉井豊四希は状況についていけず、立ち止まり成り行きを見守る。と共に携帯電話をズボンから取り出した。
闇バイトでも、殺人事件でも、何にせよ警察に通報しなければならない。杉井豊四希は一般人的思考回路で、そう考えたためである。
だがーー。
「おい、おっさん……とっとと立ち去れよ」
にやけ面のまま八月一日凪は杉井豊四希に視線を向け、ギラつく眼で睨みながら吐き捨てるように言う。
その眼に畏怖を抱くが、杉井豊四希は「し、しかし……け、まだ警察に」と言いかける。
「はァ……だりぃ。詳しい話は娘に聞けよ。テメーに此処に居られると」女が八月一日凪が話している最中にバールを振りかぶる。「邪魔なんだーーよォ!」
「がはッ!?」
八月一日凪は、バールが振られるより先に、女の鳩尾を下方から殴り上げた。女の鳩尾に、抉るかのように拳がぐぐぐ……とめり込む。女は堪えきれずに頭を垂れると、バールを地面に落としてしまう。
「早くダッシュで帰れッつってんだよ、おッさん」八月一日凪はへらへら嗤い、バールを拾った。「サツに通報すんじゃねーよ無駄だ」残りの男が鉄パイプを八月一日凪へ振り下ろす。「豊花ってチビな娘いるだろ?」だが、寸でで八月一日凪は躱し、鉄パイプは地面を殴る。甲高い音が辺りに響く。「そのチビっ娘に聞きゃいいだけなんだわめんどクセーなぁオイ?」
「わ、わかった……!」
ようやく、杉井豊四希は八月一日凪の言う通り、この危険な場から傘を捨てて駆けて立ち去った。
八月一日凪が鉄パイプを握る男のヘルメットを、バールでフルスイングし殴り飛ばす。
ヘルメットが飛んで素顔が露になった三十代前ほどの男は、あわてふためく。
ぐわんぐわんと脳が揺れるのを耐えながら、必死に逃げようと、乗って来た車へと振り向いた。
しかし、車は急発進する。その男ごと八月一日凪を轢き殺すため、勢いよく走り出したのだ。だが、八月一日凪は大きく跳んで回避。運転役は、素顔を晒した、一応は仲間である男だけを轢いてしまう。
ハンドルが言うことを効かなくなり、車は不様に塀にぶつかる。そのまま動かせなくなる。いや、運転役は気絶してしまった。たとえ動かせたとしても、疾うに無意味ーー。
一方、杉井豊四希は自宅へ走りながら呟く。
「娘に……チビっ子ーー豊花? 豊花に話は聞け?」
チビっ子と言われ、杉井豊四希は娘の杉井裕希ではないほうーー元息子の現娘、杉井豊花が頭に浮かぶ。
ーー豊花が、豊花がなにか知っているのか?
ーー豊花の身になにか危険が?
杉井豊四希は冷や汗や脂汗を額から流しながら、どしゃ降りの雨のなか、自宅まで全力で走るのだった。
「さてと……」
八月一日凪はバール片手に、ピクピク痙攣している素顔を晒した男に近寄る。
「おッと、まだ逃げんなよ? テメーに言ってんだぞ、アア?」
鳩尾を片手で擦りつつ、ふらふらな足取りで立ち去ろうとする女を引き留める。独り言のように問いかけて。
「さっき、こう言ってたよな? こんな話、聞いてない……ってなァ?」
八月一日凪は痙攣していた男にバールを振り下ろす。抉れるような打撃音が木霊する。が、すぐに雨音で掻き消された。
「テメー、誰になにを聞いてないんだよ、なァ、アア?」
八月一日凪は、息の根を止めた男から女に身を向け、にやけ面のまま躙り寄る。
「ひっ! はっ、ハッ、ハッ……ハ!」
女は恐怖からパニックになり、過呼吸を引き起こし、だらしなく地面に座り込んでしまう。
しかし、八月一日凪は女の前に立つと、バールを撫でながら口を開く。
「こんなモンで人殴りゃ、最悪殺しちまうぜ。わかってんのか、ああ? なんなら試してやろうか。すぐそこでくたばってるアイツらとおんなじ様になァ……」
「ひッ……あっ、ハッ、ッ!」
道の奥からひとが歩いてくる姿を、凄まじい視力を持つ八月一日凪は素早く察知し、わざとらしく嘆息する。
「ちッ……待ってたら騒ぎになるだろーがよォ……わりィな、クソアマッ」
バールで女の顔面が、強く殴り飛ばされる。辺りに散らばる血を、豪雨が洗い流していく。
八月一日凪は現場から離れ、自身の直属の上司ーー渋澤啓一に電話をかける。
すぐに繋がり、渋澤啓一は通話に出た。
「渋澤さん。見張ってたチビの親父が今しがた三人組、いや、運転手含め四人に襲われた。どうやら拐うつもりだったみてーだ」
『そうかい……警察にはこちらから伝えておく。あとで場所を送ってくれ。きみのことだ。どうせ殺したのだろう?』
八月一日凪はにやけ面で「ああァ……もちろん」と答える。
『すまないが、残念な報せだ。橘くんがしくじった』
「アア? アイツ、あのマジモンのバカアマがァ……不殺だとか宣ってしくじったんだろ? 違うか?」
『一から十まできみの言うとおりだよ……杉井豊花の実姉、杉井裕希が拐われてしまった。命の安否も不明な状況だーー』
八月一日凪はその場で舌打ちするのであった。
(??.)
うつ伏せの状態で意識を取り戻した橘は、すぐに渋澤に連絡を入れるため起き上がる。
ーー油断した。
杉井裕希の友人が暴漢に殴られ、人混みで悲鳴を上げる杉井裕希を守るため、橘幸子は男に特殊警棒を数回叩きつけ、相手が痛みから屈んだ隙に、この場から離れるよう伝えた。
だが、杉井裕希は遊びに出掛けていた友人を心配して、咄嗟に逃げようとはしなかった。
そんななか、人混みに紛れていた二人目の男が現れ、橘は木刀らしき得物で頭を殴られてしまった。
周りは非情だ。誰一人、橘幸子も杉井裕希も助けようとはせず、スマホで撮影する輩も出てくる始末。
なかには警察に通報しているように思える人物もいたが、直接割り込んでくる人は現れない。
橘幸子は、それを酷いと思い返すが、即座に首を振る。
殺される危険だってあるのだ。通報するくらいが正しい。相手は明らかに素人だったが、加減を知らないような連中には違いない。橘幸子は考えを改めた。
ーーいや、ひとりだけ、身を呈して杉井裕希を守ろうとした高校生らしき男の子がいた気がする。
橘幸子は、痛みで無力化したと思い込んでいたほうの男に隙を突かれ、スタンガンを浴びせられた。
改造スタンガンーー意識を喪うのも無理はない。
ーーあの爽やかで男らしい顔立ちの高校生は、無事だろうか?
身を呈して守ろうとした高校生は、最近流行りの韓流のような細身のイケメンと類される容姿ではないが、別種のイケメンーー男らしい見た目と顔立ちの高校生だっと、と橘幸子は評している。
橘幸子は、彼と杉井裕希、その友人の身を心配に思いながらも、パトカーと救急車のサイレンが近づくなか、急いで渋澤啓一へ護衛に失敗した旨を報告したのだった。
やがて、救急車に乗せられる。
雨に混じって落ちた雷の音が、辺りに木霊する。




