波紋
婚約話を伝えられてから二日たった。
「婚約。貴族にとって最も手っ取り早い伝手の作り方ーー」
自室のベッドに倒れ込んでつぶやいた。
『いいですか、リゼット様。貴族の令嬢とはですね』
メガネをかけた先生が一番最初のレッスンでおっしゃっていた。
『常にこの国をよくあらんとし、世を牽引するもの。国のため、家のために尽くすことこそがお役目なのですよ』
尽くす、ですか。そう呟いた私に先生はメガネを掛け直して、確かこうおっしゃっていた。
『尽くすと言っても、方法はさまざまです。女官として働くもの、商業を活発化させるもの。社交に精を出すもの。中でも貴族の婚姻は、重要な意味合いを持ちます。派閥、貴族間の影響力…まぁそんな嫌そうなお顔をなさらないでくださいまし、重要なのは事実なのですから。この辺りは後々お伝えしますけれどね』
コホン、と咳払いなさる。背筋はぴしりと伸びていた。
『私が言いたいのは。そういうことも含めて、貴族の義務であるということ。そしてそういうことこそ、安寧をもたらすための重要な手段なのだということです』
そもそもこの婚約は政略的なもの。目を閉じる。
今日のレッスンを思い出す。
婚約の話を聞いた先生は、こうおっしゃっていた。
『婚約が決まりなさったとか。お相手はエドガー・グランデン様?あぁ、なるほど。この国は圧倒的に家柄重視で、財政難は深まるばかり。けれど権威を重視して、どこも家計は火の車。これはご説明しましたね?』
はい、しっかりとされました。
先生が鷹揚に頷く。
最近は歩み寄って下さったのか、教え方も少し砕けたものになってきていた。
頭の中で先生がペシペシと教鞭を叩いた。
『そもそも、ノルム商会の授爵はそこにも起因するのですよ。流通網の見直しと整備が国の目論見。搬入先・搬出先の拡大がノルム家の目論見。財政支援を得るのがグランデン家の目論見というわけです』
色々噛み合った結果の婚約なのだ。頭ではわかってる。でも。
『でも先生。突然、あなたはこの人と結婚してください、なんて言われても』
そう言うと、先生が笑いなさった。
『これから仲良くなればよろしいのですよ。私はそこそこ幸せですよ』
ボスッ。
クッションに顔を埋めて呻いた。
「私が、婚約かぁーー」
頭ではわかっても。重要性を理解しても。
それでも、本当の意味で納得なんてできるはずがない。
顔を少しだけ上げると、机に貴族名鑑が置いてあるのが見える。
「あぁもう、なんなのよぉ……」
父の授爵で変化したことは多かった。
紋章。屋敷の雰囲気。周りからの見られ方。
いいことはたくさんあった。まず、目論見通り商会の販路が増えた。流通する品物の種類も増えたし、商人の出入りも増えた。
逆に悪いこと、悲しいことも多かった。馴染みの商人が何人か取引を取りやめると申し出てきた。
お父様が食い下がっても、眉根を下げられてこう言われるだけだった。
『悪いな。お貴族様と取引するような余力は、うちにはないんだよ』
お父様は静かに押し黙っていた。
そしておそらく、一番大変だったのは兄さんだ。この国有数の学園に死に物狂いで勉強して、平民の特待生として入学。ただでさえ注目を集めていたのに、その一年後には男爵令息となったのだから……
クッションに顔を押し付け直すと、眠気が襲ってきた。ふっと意識を手放した。
夜、ふと目が覚めた。廊下は薄暗く、少しだけひんやりとしている。カツカツと音が響いている。
兄の部屋から明かりが漏れていた。そっと部屋を覗くと机に向かう後ろ姿が見える。床には分厚い本があちこちに散乱していて、足の踏み場もないほどだった。
「兄さ…」
言いかけて、口を閉じた。声をかけることができなかった。そっと離れる前に、異常に筆跡の美しい書類がいくつも見えた。
⭐︎
朝、朝食に現れた兄はいつも通りの顔だった。夜見たのは、気のせいだったのかしら。食べ終わり、席を立とうとした時、兄の手にインク汚れがうっすらとついているのが見えた。
気のせいじゃ、なかったんだわ。
「どうした?」
「い、いえ。なんでもない、です」
じろじろと見すぎた。いけないことをしたみたいに思えた。
「リゼ、手紙が届いていたぞ」
手紙?
「貴族のご令嬢のお仕事だ」
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