6日目『無音』
「……貴方は、誰ですか?」
薄暗い宿屋の一室。
雨粒が窓ガラスを打つ音が、やけに大きく耳の奥で反響した。
ツァーッ、というホワイトノイズが脳髄を埋め尽くす。
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、オレの視界からサァァッと『色』が抜け落ちていった。
血の通ったアヤの肌色も、ランプのオレンジ色の炎も、古ぼけた毛布の茶色も。全てがモノクロームの砂嵐に飲まれたように、白黒の無機質な風景へと変貌する。
膝の関節から、カクンと力が抜けた。
ドサリと、冷たく埃っぽい床に崩れ落ちる。
「あの……大丈夫、ですか……?」
ベッドの上で身を縮めるアヤが、震える声で尋ねてくる。
だが、その声のトーンにオレを案じる響きはない。完全に、部屋に突然現れた『見知らぬ不審者』に向ける、純粋な警戒と恐怖だった。
指先が氷のように冷たくなり、息の仕方を忘れたように肺が動かない。
喉の奥に、鉛の塊が詰まったみたいだ。
(……あぁ、そうかよ。全部、パーか)
オレたちが泥水をすすって、互いの血とトラウマにまみれながら積み上げた四日間の絆。
背中を預け合い、ゴブリンキングを倒して、共に笑い合ったあの瞬間の全て。
そんなものは、最初からこの世界のどこにも存在しなかったのだ。
(テメェは……オレを、知らねぇ……)
心臓の拍動すら鈍く感じる。
立ち上がる気力もないまま、オレはモノクロの床に突っ伏し、泥だらけの拳を力なく握りしめた。
†================†
その日は、どうやって夜を越えたのか覚えていない。
気付けば、窓の外が白み始め、カビ臭い宿屋の空気が朝の冷気を孕んでいた。
オレは感情が死滅したような感覚のまま、空中に【ステータス】のウィンドウを引きずり出した。
ピコッと鳴った電子音と共に、青白い光の文字が並ぶ。
その一番下に、昨日までは存在しなかった項目が追加されていた。
『スキル枠:????(未解放)』
(なんだ、この空白……?)
文字は薄暗くグレーアウトしており、詳細をタップしようとしても指がすり抜けるだけ。
(答えろよクソ女神。これ以上、オレを馬鹿にしてんのか……?)
だが、天界からの返答は一切ない。
ただ、冷たいシステム画面が虚空に浮かんでいるだけだ。
オレは【Book】を開く。
浮かび上がったのは『重度フラッシュバックによる自己肯定感の完全喪失』という、前回と全く同じアヤの精神状態。
オレは深呼吸を一つし、自分自身の心臓に太い杭を打ち込んだ。
(前のアヤは死んだ。……そうだ、あいつはもう死んだんだ。今ここにいるコイツは、外見が同じだけの『違うアヤ』だ)
そう割り切らなければ、この狂った世界で正気を保てない。
オレは感情のスイッチを完全に叩き斬り、ただの機械になった。
ベッドの隅で泣きじゃくるアヤに近づき、低く、冷たく、淡々と口を動かす。
「……辛かったな。だが、ここは地球じゃねぇ。お前はもうサンドバッグじゃねぇんだ」
心など一ミリもこもっていない、ただの台本の朗読。
だが、アヤは前回と同じタイミングで顔を上げ、前回と同じ涙を流し、ギルドへ向かって頭を下げる。
全てが、あらかじめプログラムされた『作業』だった。
オレの心は、水底の石のようにピクリとも動かなかった。
†================†
ギルドでの謝罪。森でのキング討伐。
台詞も、間も、勝ち方も、寸分違わねぇ。
オレはもう、感情を切ったナビゲーションシステムだった。
……二度目の景色は、何の味もしねぇ。
前回と全く同じ、完璧な連携による勝利。大団円。
だが。
(……来るぞ)
オレの全身の毛穴という毛穴が限界まで開ききり、冷や汗が滝のように背筋を滑り落ちていた。
(来る! あのイカれた光の線が、アヤの頭を吹き飛ばしに来るぞ!)
胃の奥が急速に収縮し、吐き気がこみ上げる。
オレは血走った目で、鬱蒼と茂る森の暗がりをギョロギョロと見回した。
少しでも怪しい影はないか、魔力の揺らぎはないか。
「気を抜くな!!!」
オレは喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
「アヤ、大盾を構えろ! 上段だ! 死角を消せ!!」
オレの鬼気迫る怒声に、アヤはビクッと体を震わせ、慌てて重い大盾を拾い上げて頭上に構えた。
突然、何もない空間に向けて必死に盾を構え直したアヤの様子を見て、パーティーの連中もただならぬ空気を察し、慌てて武器を構え直す。
「えっ……ま、まだ何かいるの!?」
「どこだ……どこから来やがる……ッ! 出てこいクソ野郎が!!」
心臓が肋骨の内側をガンガンと殴りつける。
爪が掌に食い込み、ジワリと生温かい血が滲んだ。
あらゆる方向を警戒し、いつでも指示を出せるように顎の筋肉を噛み締める。
……10秒が経過した。
……30秒。
……1分。
静寂。
風が木々の葉をサワサワと揺らす音と、ロンたちが荒い息を吐く音だけが、森の中に虚しく響いている。
目も眩むような光の線も、アヤの頭が吹き飛ぶあの凄惨な音も、いつまで経っても発生しない。
「……あ?」
拍子抜けしたように、ロンが大剣を肩に担ぎ直した。
「おいおいリーダー、なんもいねーじゃねえか。ビビらせんなよ」
ジャミンもやれやれとため息をつき、アヤは不思議そうな目でオレを見下ろしている。
(なんで……なんで来ねぇんだ……?)
オレは構えた拳を震わせながら、呆然と周囲を見渡した。
オレが警戒して、アヤに盾を構えさせたから、狙撃手は攻撃を諦めたのか?
それとも、ルートを進めるタイミングが数秒ズレたせいで、そいつと遭遇しなかったのか?
答えはどこにもない。
ただ、見えない敵の影に一人で吠え立てていたオレの姿だけが、ひどく滑稽に浮いていた。
†================†
街へ戻り、ギルドへの報告を済ませる。
酸っぱいエール酒と男たちの汗の匂いが充満する酒場での打ち上げを終え、オレたちは宿屋の部屋へと戻ってきた。
ランプのオレンジ色の光が、狭い部屋を温かく照らしている。
ギシギシと軋む木製ベッドの上で、アヤが毛布にすっぽりと包まりながら、オレを見上げていた。
「……あの」
「あ?」
「ありがとう、ございました。私1人では……絶対に、出来なかったです」
ホッとしたような、それでいて少し照れくさそうな、アヤの柔らかい笑顔。
オレはハッと息を呑んだ。
(……そうか。こいつから礼を言われるのは、初めてか)
あの時。
アヤが満面の笑みを浮かべた直後、あの理不尽な光の線が全てを吹き飛ばした。
だからオレは、こいつからの「ありがとう」を聞いていなかった。
時間が巻き戻ったのか、タチの悪い幻覚を見せられているのか。このふざけた現象が何なのかは、未だに確信が持てねぇ。
目の前にいるのは、あの四日間の記憶を持たない『違うアヤ』なのかもしれない。
だけど。
今、オレに向けられているこの不器用で確かな『信頼』の光は。
今日、泥水すすって一緒に勝ち取った絆は、間違いなく本物だ。
胸の奥につっかえていた冷たいしこりが、じんわりと溶けていくのを感じた。
(……ああ、クソ。どっちだっていいじゃねぇか。コイツはコイツだ)
オレは鼻で笑い、そっぽを向いて頭の後ろで腕を組んだ。
「……ばーか。オレの指示が良かっただけだ。さっさと寝ろ。明日からまた、地獄のチームワーク練習だぞ」
「はいっ……おやすみなさい」
アヤが嬉しそうに目を閉じ、静かな寝息を立て始める。
オレもベッドの足元の床に腰を下ろし、冷たい壁に背中を預けた。
(……まあ、今日は生き残ったんだ)
張り詰めていた警戒の糸が緩み、全身からドッと疲労が押し寄せてくる。
ランプの煤の匂いと、雨上がりの湿った空気が、やけに心地いい。
(あの光の線の正体も、このふざけた現象の謎も、明日考えりゃいい……今はとにかく、寝てぇ……)
オレは、ゆっくりと重い瞼を閉じた。
――瞬き。
パチリと、目を開ける。
「…………え?」
オレの口から、間抜けな声が漏れた。
視界の端から端まで、一面の緑。
鼻腔を強制的に犯す、腐葉土と青臭いシダ植物の匂い。
足元には、ぬかるんだ冷たい泥水。
見上げれば、薄暗い曇り空を覆い隠すような、巨大な森の木々。
(……は?)
宿屋の壁がない。アヤのベッドがない。
あの温かい空気も、ランプの光も、全てが完全に消え失せている。
オレは今、薄暗い『初めて出会った森の中』に突っ立っていた。
なんでオレは、森にいる?
さっきまで、安全な街の宿屋で壁に背中を預けていたはずだ。
わけがわからず、慌てて自分の身体をペタペタと触り、確認する。
首は繋がっている。四肢もある。着ている服は泥だらけだが、どこにも傷一つねぇ。血も流れていないし、痛みも全くない。
(どうなってやがる……!? 夢か? それとも、また何か理不尽な罠にハマったのか……!?)
激しく混乱する頭のまま、オレは震える指先で虚空を引っ掻き、【ステータス】のウィンドウを引きずり出した。
ピコッ、と青白い光の文字が空中に並ぶ。
血走った目で、並んだ項目を上から下へと舐め回すように確認していく。
そして。
(……あ?)
視線が、一番下の欄に釘付けになった。
昨日の朝、宿屋で確認した時はグレーアウトして『????(未解放)』となっていた、あの謎の空白枠。
そこに今、はっきりと、忌まわしい文字が刻まれていた。
『スキル枠:リセット』
(……リ、セット?)
思考が、完全に真っ白にフリーズした。
意味がわからない。
敵なんていなかった。戦闘は終わっていた。アヤはさっきまで、安全な街の宿屋のベッドで、穏やかな寝息を立てていたはずだ。
直後、その混乱を嘲笑うかのように。
遅れて届いた死の宣告(システム音声)が、無機質に脳内へ鳴り響いた。
『※担当勇者の死亡にともない、運命共同体ルールにより、サポート職員の生命活動を強制終了し、再起動を実行しました』
「……ざけんな……糞女神ッ!!」
ギリッと血が滲むほど唇を噛み締め、オレは絶叫と共に傍らの太い木を全力で殴りつけた。
ドンッ、という鈍い音と共に拳の皮が破れ、痛覚が走る。
だが、そんなものはどうでもよかった。
見えない死因。防ぎようのない理不尽。
オレのやり場のない怒声だけが、静まり返った森の奥で虚しく木霊していた。




