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辞令:人災育成課配属を命ずる 〜ノルマ8192万人。転生した元最強勇者の転職先は、人災級のポンコツ勇者を 育てるブラック職場でした〜   作者: Ruru
ケース1 井上 綾(いのうえ あや)

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5日目『初期化』


ドクンッ、と。


胸の奥で、心臓が肋骨を突き破らんばかりに大きく跳ねた。


「ガハッ……!?」


顔面にべちゃりとへばりつく、腐葉土の不快な冷たさ。


鼻腔の奥まで泥水が入り込み、オレは咳き込みながら泥濘から跳ね起きた。


「ハァッ……! ハァッ……!」


酸素を求めて、肺がヒューヒューと悲鳴を上げる。


視界が激しくブレて、平衡感覚が狂っている。


オレは無意識のうちに、両手で自分の首筋をガリガリと掻きむしるように撫で回していた。


(繋がってる……ッ。首はある。頭もある。血は……出てねぇ!)


手のひらに伝わるのは、脈打つ頸動脈の感触だけだ。


泥だらけの銀色の長髪が、顔の周りに張り付いている。


自分は生きている。間違いなく、十歳の少女の身体のままで。


だが。


『……っ』


脳裏にフラッシュバックするのは、生温かい血のシャワー。


鼻をつく、焦げた肉と鉄の臭い。


オレの目の前で、満面の笑顔を浮かべていたアヤの顔面が。


鼻から上が、目も眩むような【光の線】によって、水風船のように破裂した光景。


(何がどうなった!? 落ち着け……オレたちはキングを倒して、それから、光が走って……!)


自分の意識がプツンと途切れる直前の、あの圧倒的な『死』の感覚が、指先の震えとなって現れている。


奥歯がカチカチと鳴って止まらない。


(アヤ! アヤはどうなった!? あいつ死んだのか!?)


激しく首を横に振り、幻影を振り払う。


オレは震える指先で虚空を引っ掻き、荒々しく【マップ】のUIを引きずり出した。


ピコピコと、緑色の網目状の地図上に、赤い光点が一つ浮かび上がっている。


距離は近い。この森の中だ。


(……いる。いるじゃねーか!)


オレは泥だらけのスカートの裾を握りしめ、


短い両脚で必死に薄暗い茂みへ突っ込んでいった。


息が、もう、上がってる。十歳のガキの肺活量なんざ、


こんな時に限って、容赦なく足を引っ張りやがる。


痛ェ。だが、そんなこと構ってられるか。


(生きててくれ。頼むから……!)


†================†


ドスッ、ドスッという鈍い打撃音と、獣の糞尿が混ざったような強烈な悪臭。


木々が開けた場所に飛び出したオレの目に飛び込んできたのは、三匹のゴブリンの群れだった。


(……は?)


そして、その中心にいるのは、見覚えのあるポンコツパーティー。


戦士のロン、魔法使いのジャミン、ヒーラーのナミ。


そして。


「アヤ……ッ!」


いた。


間違いなく、アヤだ。


頭が吹き飛んでなんていない。五体満足で、あの見慣れた初心者用の鎧を着ている。


胸の奥につっかえていた巨大な岩が、ボロリと崩れ落ちるのを感じた。


(よかった、生きてやがった……!)


安堵で膝から崩れ落ちそうになる。


だが。


次の瞬間、オレの全身の血が一気に逆流した。


「このクズがッ! また盾捨てて逃げやがったな!」


戦士のロンが、ゴブリンを蹴り飛ばしながら後方に怒鳴り散らしている。


その視線の先。


アヤは、あの身の丈ほどもある大盾を出していなかった。


泥だらけの地面に這いつくばり、両手で頭を抱え、ただガタガタと小刻みに震えている。


「指示を出せよリーダー! なんでお前が前に出ねぇんだよ!」


ロンの顔には、隠しきれない軽蔑と嫌悪が張り付いていた。


彼はアヤの横を通り過ぎる瞬間、ペッ、と。


汚い唾を吐き捨てた。


黄色い粘液が、アヤの白い頬にべっとりと張り付く。


「ひっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」


アヤは唾を拭うことすらできず、さらに体を丸めて嗚咽を漏らす。


(……あ?)


オレの頭の中で、何かがブチッと千切れる音がした。


待て。おかしい。


確かにこいつらは最初から連携ゼロの三流だったが、いきなり唾を吐きかけるほど険悪じゃなかったはずだ。


何が起きてる? なんでアヤは、あんな初めて出会った時みたいな情けない姿に戻ってやがる?


だが、そんな推論より先に、オレの身体は勝手に動いていた。


「テメェら、よくもアヤに……! オラァ!!」


オレは、自分の姿が見えないルールなどクソ食らえと理性を飛ばし、ロンの死角から飛び出した。


ヤンキー時代の喧嘩の要領で、足の裏で泥を蹴り上げ、腰の回転を乗せた右のストレートを、ロンの薄汚い顔面めがけて全力で振り抜く。


――スカッ。


「……っ!?」


オレの拳は、ロンの鼻先を【ただの風のようにすり抜けた】。


「チッ、数が多い! 一旦引くぞ!」


ロンはオレの存在など全く気付かず、撤退の指示を出して走り出す。


勢い余ったオレは、バランスを崩して泥のぬかるみに顔から突っ込んだ。


(……ちくしょう、そうだ。触ることもできねーのかよ……ッ!)


手出し不可。物理干渉不可。


オレの姿も声も、勇者であるアヤ以外には絶対に届かない。


分かっていたはずの理不尽なルールが、かつてないほどの悔しさと無力感となってオレの胸をかきむしる。


「いやぁぁぁっ!」


パニックを起こしたアヤが、悲鳴を上げて森の奥へと走り出した。


「おいアヤ! 待て!」


泥まみれの顔を上げ、オレも後を追う。


だが。


「ハァッ……ハァッ……クソッ、足が……!」


十歳の小さな身体の心肺機能は、絶望的なまでに低い。


ガニ股で必死に地面を蹴るが、歩幅が狭すぎて距離が縮まらない。


少し走っただけで肺が焼けるように熱くなり、喉の奥からヒューヒューと笛みたいな情けない音が鳴る。


ズザァッ!


木の根に足を取られ、オレは無様に地面を転がった。


膝を激しく擦りむき、ジワリと血が滲む。


顔を上げた時、アヤの背中はもう、鬱蒼とした木々の奥へ完全に見えなくなっていた。


「……なんで……ッ」


泥だらけの両拳で、オレは地面を思い切り殴りつけた。


ベチャリと泥が飛び散る。


手の甲に走る鋭い痛みが、今の状況が夢でも幻でもないことを、オレに容赦なく突きつけている。


(レベル2のクエスト。キングの討伐。あの謎の狙撃。……時間が、戻っている……?)


薄々感じていた嫌な予感が、ドロドロとした黒いタールのように脳内を侵食していく。


だが、認めたくなかった。


もし本当に時間が巻き戻っているとしたら、あのアヤの姿は。


オレは奥歯が砕けそうなほど噛み締め、再び立ち上がった。


確かめなきゃならねぇ。


†================†


カビと埃の匂いが染み付いた、薄暗い宿屋の一室。


ドアをすり抜けて中に入ると、軋む木製ベッドの上で、ボロボロの毛布に包まった小さな塊が、カタカタと震えていた。


「…………」


オレは、濡れた靴のままゆっくりとベッドに近づいた。


キングを倒した時の、あの大団円。


仲間と連携し、自分の足で立ち上がったアヤの誇り高い背中。


それが、どうしてこんな事になってる?


「……アヤ」


オレは身を乗り出し、毛布の隙間から覗くアヤの細い肩を、ギュッと掴もうとした。


ビクッ! と。


アヤが体を激しくすくませ、毛布から顔を出した。


その目を見た瞬間、オレの全身が凍りついた。


怯え。恐怖。


そして――【見知らぬ不審者を見るような、決定的な不信感】。


(なんだ、その目は……)


「おい、何か答えろよ! キングを倒した後、お前に何があった!?」


自分でもコントロールできないほど、声が荒くなる。


ソーシャルワーカーとしての冷静なトーンは吹き飛び、昔のヤンキー時代の威圧的な怒声が剥き出しになる。


「オレが教えた防御はどうした!? お前、一人でちゃんと立てたじゃねーか! オレが誰だかわかるか!?」


オレの剣幕に、アヤはブルブルと首を振り、シーツを握りしめながらベッドの隅へと後ずさっていく。


部屋の中に、重く息苦しい沈黙が降りた。


窓ガラスを、冷たい雨粒が叩く音だけが響く。


やがて、アヤの血の気の引いた唇が、ゆっくりと震えながら動いた。


「……貴方は、誰ですか?」


ドスッ。


心臓を、氷の刃で真っ向から貫かれたような感覚だった。


「……あ?」


息が止まる。


オレとアヤが積み上げてきた、血と汗と泥にまみれた四日間の絆。


共に戦い、背中を預け合い、笑い合った記憶。


トラウマを乗り越え、やっと掴みかけた希望の光。


それが。


『貴方は、誰ですか?』


オレの中にある記憶だけを残して。


アヤの中からは、全てが、完全に、残酷なまでに初期化(リセット)されていた。

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