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辞令:人災育成課配属を命ずる 〜ノルマ8192万人。転生した元最強勇者の転職先は、人災級のポンコツ勇者を 育てるブラック職場でした〜   作者: Ruru
ケース1 井上 綾(いのうえ あや)

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3日目『壁』


暗闇の中だった。


足元から、ドロドロとした黒い泥が這い上がり、私の足首を絡め取っていく。

鼻にこびりつくのは、乾いたチョークの粉の匂い。


『またあいつだよ』

『また泣いてる。キモいんだけど』


無数の声が、長く黒い影となって、私を取り囲んでいた。


それは、私を苛めていた中学生の男子たち。

その周りには、名前も知らない、顔のない大人たちまでいる。

みんな、私を指差して、クスクスと笑っていた。


心臓が縮み上がり、喉の奥がカラカラに渇く。

逃げたい。叫びたい。

なのに、声帯が麻痺したように、音が出せない。


足が、棒みたいに固まって、一歩も動かない。


幼い私は、ただ、その場にうずくまって、震えることしかできなかった。


そんな小さな私を、今の私が、少し離れた場所から、じっと見つめている。


(……結局、私はいつもこうだ)


冷たい床の木目を数えながら、私は思う。


(誰も助けてくれない。みんなで、私を馬鹿にして、笑ってる)


それが、私の世界の、当たり前だった。

学校でも、家でも、この異世界に来てからも。

どこにいても、私は、笑われる側の、お荷物。


(こんな奴ら、嫌い)


影たちを、睨みつける。

けれど、その憎しみは、すぐに、もっと深い場所へと、堕ちていく。


(……でも。一番嫌いなのは)


跳ね返せない。言い返せない。逃げることしかできない。

そんな、情けない、自分。


(嫌い…自分なんか…大っ嫌い……!)


ああ。

この感情こそが。

いつだって、私の、一番底にある。



†================†



その時だった。


暗闇の底に、ポッ、と。

温かい明かりが、灯った。


『アヤ。こっちに、おいで』


胸の奥が、ぎゅうっと、締め付けられる。


懐かしい、声。

少し低くて、不器用で。

タバコと、整髪料の匂いがする。


――大好きだった、人の声だ。


幼い私が、ぱっと顔を上げる。

大きな手が、暗闇の中から伸びてきて、冷え切った私の体を、ふわりと抱きしめた。


温かい。

唯一の、光。

私が、唯一、息をできる場所。


お父さん。


幼い私が、その温もりに、必死にすがりつく。

その光景を見つめる、今の私の頬を、つうっと、涙が伝った。


(……ねぇ、お父さん)


声が、震える。


(なんで? なんで、私を、置いていっちゃったの?)


あの日。

冷たい雨の中。線香の煙。

白蝋みたいに冷たかった、お父さんの顔。

焦点の合わない、お母さんの目。


(寂しいよ。会いたいよ……!)


私の世界から、光が消えた日。

味方は、一人も、いなくなった。


ふっ、と。

抱きしめてくれた温もりが、消える。

むせ返るような、線香の匂いだけが、後に残った。


私は、また。

一人ぼっちの暗闇に、うずくまる。


(……もう、いい)


ぎゅっと、膝を抱える。


(もう、誰も信じない。期待もしない。

ここから、一歩も、動かない。

そうすれば、もう、傷つかなくて、済むから)


私は、固く、心を閉ざした。


――だけど。



『立てェッ!!』



鼓膜を、ビリビリと震わせる。

荒々しい、声。


誰かが、私の手首を、ぎゅっと、強く握った。

痛いほどじゃない。でも、絶対に離さない、っていう、強引な力。


冷たい泥の中から、無理やり、光の射す方へと、引きずり出される。


「……っ」


眩しさに、目を細めながら、顔を上げる。


そこにいたのは。

私より、ずっと幼い、十歳くらいの、女の子だった。


短い手足。可憐な、容姿。


なのに。

その瞳の奥に宿る、燃えるような熱。

絶対に揺るがない、背中の力強さ。


それが、なぜか。

大好きだった、お父さんと、重なって見えた。


『盾を構えろ! あいつらは、お前を苛めてた奴らじゃない! お前が守るべき、味方だろうが!』


パリーン、と。


私を取り囲んでいた、黒い影が。

笑うクラスメイトたちの、幻が。

ガラスみたいに、砕け散った。


一気に、肺へと流れ込んでくる。

雨上がりの、土の匂い。青臭い、シダ植物の匂い。


視界が、晴れる。


目の前には、お粗末な木の棒を振りかぶって、私に向かって飛びかかってくる、一匹のゴブリン。


『弾き飛ばせ!』


女の子の声が、私の背中を、力強く叩いた。


私は、言われるがまま。

無我夢中で、体を前に出し、身の丈ほどもある大盾を、突き出した。


ドガァァン!!


鈍い、衝撃。


でも、不思議と。

腕は、痛くなかった。


私の体は、一歩も下がらず。

ゴブリンの方が、ボールみたいに吹き飛んで、太い木に激突して、動かなくなった。


「……え?」


自分の、両手を見る。


(勝った……の? 私が……?)


呆然とする私の肩に。

ぽん、と。

小さな手が、乗せられた。


小さいのに。

その手には、なぜだか、絶対的な、安心感があった。


振り返ると、鼻血を出した可憐な女の子が、にっ、と歯を見せて、笑っている。


「ヘッ……やればできるじゃねーか」


その、少し乱暴で、温かい、言葉の響き。


――それは。


昔。

私が、初めて自転車に乗れた時。

お父さんが、頭を撫でながら、言ってくれた言葉に。


すごく、似ていた。



†================†



オレは、血の滴る鼻を手の甲で乱暴に拭いながら、呆然としているアヤの肩を、軽く叩いた。


(……よし。幻覚は、完全にぶち壊した)


トラウマでガチガチに固まってたガキが、初めて、自分の意志で、盾を構えた。

たった一匹、ゴブリンを弾いただけだ。

だが、こいつにとっちゃ、とんでもねぇ、一歩だ。


オレは、アヤの変化を、傍らで見ていた。


さっきまで、泥の中でうずくまって、「ごめんなさい」しか言えなかった少女。

その背中に、今、ほんの少しだけ、芯が通っている。


(……変わりやがったな)


ほんの、わずかな変化だ。

だが、確かに、こいつは、自分の足で、立った。


不器用で。臆病で。どうしようもなく、自己肯定感のねぇガキだが。

その奥には、ちゃんと、前を向こうとする、強さがある。

それを、初めて、こいつ自身が、垣間見た瞬間だった。


(ま、上出来だ)


オレは、内心で、ニヤリと笑った。


――だが。


オレの全身の毛穴が、一気に、開いた。

首筋の産毛が、ぞわりと、逆立つ。


(……ヤバいのが、来てやがる)


歴戦の勘が、けたたましく、警鐘を鳴らす。

森の奥から、地面を揺らすような、不気味な気配が、近づいてくる。


「アヤ! 前に出るぞ!」


オレは、まだ余韻に浸っているアヤの腕を、強引に引っ張り、前へと押し出した。


「えっ……!?」


「いいから! オレの言うとおりに、言え!」


戸惑いながらも、アヤが、こくりと頷く。

その目に、さっきまでの怯えだけじゃない、オレへの、わずかな信頼が、宿り始めていた。


「ヘイトを、自分に集めるスキルだ! 腹の底から、叫べ! ――【敵意の咆哮(ウォークライ)】!!」


「て、敵意の咆哮(ウォークライ)ッ!!」


アヤの体から、赤い波紋のようなオーラが、放射状に広がる。


森の中に散らばっていた、数匹のゴブリンの視線が、ピタリと。

一斉に、アヤ一人へと、集中した。


「ど、どうするの……っ!?」


四方から殺気を向けられ、アヤが、不安げにオレを見る。


「何もするな! 耐えろ! あんな、なまくら棒じゃ、お前の盾は、絶対に壊れねぇ!」


ギギャアッ!! と、ゴブリンたちが、一斉に飛びかかってくる。

棍棒が、錆びた剣が、大盾に叩きつけられる。


ガァン! キィン!


だが、アヤの盾は、びくともしない。

雑な攻撃は、分厚い盾の表面で弾かれ、ゴブリンどもが、大きくバランスを崩した。


「今だ! 魔法使いの名前を、叫べ!」


「ジャミンさん!!」


「わかってるわよ!!」


アヤが叫ぶより、早く。

魔法使いのジャミンは、すでに、詠唱を終えていた。


「【炎の矢(ファイヤーアロー)】!!」


ヒュンッ! ドガァン!!


無数の炎の矢が、体勢を崩したゴブリンたちに、次々と突き刺さる。

肉の焦げる、強烈な臭い。


「ボサッとするな、次だ!」


オレは、言葉で、アヤの背中を叩く。

炎を免れた一匹を、アヤが盾で、力任せに弾き飛ばす。


「戦士の名前を、叫べ!」


「ロンさん!!」


「おうよ!!」


弾かれて無防備になったゴブリンの脳天に、戦士のロンの大剣が、振り下ろされる。

ズバァン!! と、緑の体液が、宙を舞った。


「まだだ! いいか、絶対に、後ろを取られるな! 全部の敵を、正面に捉えろ!」


「はいっ!」


だが。

死角の、右側面。

深手を負った一匹が、放った汚い矢が、アヤの太ももを、掠めた。


「痛っ……!」


顔をしかめるアヤ。

だが――痛みは、あるのに。血が、出ていない。


淡い、緑色の光が、アヤの足元から、ふわりと立ち昇る。

傷口が、シュルシュルと、塞がっていく。


「……え?」


驚いて振り返るアヤの後ろで。

杖を構えたヒーラーのナミが、パチン、とウインクをしてみせた。


「ナミ、さん……」


オレは、アヤの隣で、腕を組み、ニヤリと笑った。


「見ろ。お前が、前線で踏ん張れば。味方は、誰も、傷つかねぇ。

だからこそ、味方は、全力で、お前を助けてくれる」


「……うん」


「勇者が、偉そうに指示する必要なんて、ねぇ。

圧倒的なリーダーシップも、いらねぇ。

お前に必要なのは――」


オレは、残るゴブリンを見据えながら、アヤの背中を、ぽんと叩いた。


「背中を預けられる、『友達』だ」


アヤの瞳から、すっと、迷いが消えた。


「ロンさん、ジャミンさん! お願いします!」


その声に、もう、震えはなかった。


「任せな!!」

「いっくわよー!」


戦士の剣閃と、魔法使いの炎が、再びゴブリンたちを包み込む。

あっという間に、群れは、完全に沈黙した。


「やった……!」

「アヤ、あんた、意外とやるじゃない!」


仲間たちが、歓喜の声を上げる。

初めて、仲間と連携し、自分の力で勝利を掴んだアヤの顔に。

信じられない、という、それでいて、心の底から嬉しそうな、笑みが浮かんだ。


――だが。


その、瞬間。


オレの、全身の毛穴が、再び、開いた。


ズズズズズ……ッ。


森の奥から、地面を揺らす、地鳴り。

太い木々を、バキバキとへし折る、轟音。


歓喜に沸いていた仲間たちが、ピタリと、動きを止める。


生温かい風と共に、流れてくる。

強烈な、獣の血の匂い。


「……おいおい、マジかよ」


森の奥の暗がりから。

ぬっ、と。


見上げるほど、巨大な影が、姿を現した。


赤黒く隆起した、岩のような筋肉。

通常のゴブリンの、三倍はある、巨躯。

黄色く濁った、残忍な瞳が、オレたちを、捉える。


『ゴブリン・キング』。


つい今しがた、初めての勝利に、笑い合ったばかりだってのに。

その絶頂に、叩き落とすように。

規格外の、絶望が、姿を現した。


「……冗談じゃねぇぞ。こんなの、初級クエストで出てきていい、バケモンじゃねぇ……ッ!」


オレは、引き攣る顔で、その巨体を見上げた。


ようやく、立ち上がったばかりの、小さな勇者。

その前に立ちはだかる、あまりにも巨大な、壁。


戦いは、まだ。

始まったばかりだった。

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