3日目『壁』
暗闇の中だった。
足元から、ドロドロとした黒い泥が這い上がり、私の足首を絡め取っていく。
鼻にこびりつくのは、乾いたチョークの粉の匂い。
『またあいつだよ』
『また泣いてる。キモいんだけど』
無数の声が、長く黒い影となって、私を取り囲んでいた。
それは、私を苛めていた中学生の男子たち。
その周りには、名前も知らない、顔のない大人たちまでいる。
みんな、私を指差して、クスクスと笑っていた。
心臓が縮み上がり、喉の奥がカラカラに渇く。
逃げたい。叫びたい。
なのに、声帯が麻痺したように、音が出せない。
足が、棒みたいに固まって、一歩も動かない。
幼い私は、ただ、その場にうずくまって、震えることしかできなかった。
そんな小さな私を、今の私が、少し離れた場所から、じっと見つめている。
(……結局、私はいつもこうだ)
冷たい床の木目を数えながら、私は思う。
(誰も助けてくれない。みんなで、私を馬鹿にして、笑ってる)
それが、私の世界の、当たり前だった。
学校でも、家でも、この異世界に来てからも。
どこにいても、私は、笑われる側の、お荷物。
(こんな奴ら、嫌い)
影たちを、睨みつける。
けれど、その憎しみは、すぐに、もっと深い場所へと、堕ちていく。
(……でも。一番嫌いなのは)
跳ね返せない。言い返せない。逃げることしかできない。
そんな、情けない、自分。
(嫌い…自分なんか…大っ嫌い……!)
ああ。
この感情こそが。
いつだって、私の、一番底にある。
†================†
その時だった。
暗闇の底に、ポッ、と。
温かい明かりが、灯った。
『アヤ。こっちに、おいで』
胸の奥が、ぎゅうっと、締め付けられる。
懐かしい、声。
少し低くて、不器用で。
タバコと、整髪料の匂いがする。
――大好きだった、人の声だ。
幼い私が、ぱっと顔を上げる。
大きな手が、暗闇の中から伸びてきて、冷え切った私の体を、ふわりと抱きしめた。
温かい。
唯一の、光。
私が、唯一、息をできる場所。
お父さん。
幼い私が、その温もりに、必死にすがりつく。
その光景を見つめる、今の私の頬を、つうっと、涙が伝った。
(……ねぇ、お父さん)
声が、震える。
(なんで? なんで、私を、置いていっちゃったの?)
あの日。
冷たい雨の中。線香の煙。
白蝋みたいに冷たかった、お父さんの顔。
焦点の合わない、お母さんの目。
(寂しいよ。会いたいよ……!)
私の世界から、光が消えた日。
味方は、一人も、いなくなった。
ふっ、と。
抱きしめてくれた温もりが、消える。
むせ返るような、線香の匂いだけが、後に残った。
私は、また。
一人ぼっちの暗闇に、うずくまる。
(……もう、いい)
ぎゅっと、膝を抱える。
(もう、誰も信じない。期待もしない。
ここから、一歩も、動かない。
そうすれば、もう、傷つかなくて、済むから)
私は、固く、心を閉ざした。
――だけど。
『立てェッ!!』
鼓膜を、ビリビリと震わせる。
荒々しい、声。
誰かが、私の手首を、ぎゅっと、強く握った。
痛いほどじゃない。でも、絶対に離さない、っていう、強引な力。
冷たい泥の中から、無理やり、光の射す方へと、引きずり出される。
「……っ」
眩しさに、目を細めながら、顔を上げる。
そこにいたのは。
私より、ずっと幼い、十歳くらいの、女の子だった。
短い手足。可憐な、容姿。
なのに。
その瞳の奥に宿る、燃えるような熱。
絶対に揺るがない、背中の力強さ。
それが、なぜか。
大好きだった、お父さんと、重なって見えた。
『盾を構えろ! あいつらは、お前を苛めてた奴らじゃない! お前が守るべき、味方だろうが!』
パリーン、と。
私を取り囲んでいた、黒い影が。
笑うクラスメイトたちの、幻が。
ガラスみたいに、砕け散った。
一気に、肺へと流れ込んでくる。
雨上がりの、土の匂い。青臭い、シダ植物の匂い。
視界が、晴れる。
目の前には、お粗末な木の棒を振りかぶって、私に向かって飛びかかってくる、一匹のゴブリン。
『弾き飛ばせ!』
女の子の声が、私の背中を、力強く叩いた。
私は、言われるがまま。
無我夢中で、体を前に出し、身の丈ほどもある大盾を、突き出した。
ドガァァン!!
鈍い、衝撃。
でも、不思議と。
腕は、痛くなかった。
私の体は、一歩も下がらず。
ゴブリンの方が、ボールみたいに吹き飛んで、太い木に激突して、動かなくなった。
「……え?」
自分の、両手を見る。
(勝った……の? 私が……?)
呆然とする私の肩に。
ぽん、と。
小さな手が、乗せられた。
小さいのに。
その手には、なぜだか、絶対的な、安心感があった。
振り返ると、鼻血を出した可憐な女の子が、にっ、と歯を見せて、笑っている。
「ヘッ……やればできるじゃねーか」
その、少し乱暴で、温かい、言葉の響き。
――それは。
昔。
私が、初めて自転車に乗れた時。
お父さんが、頭を撫でながら、言ってくれた言葉に。
すごく、似ていた。
†================†
オレは、血の滴る鼻を手の甲で乱暴に拭いながら、呆然としているアヤの肩を、軽く叩いた。
(……よし。幻覚は、完全にぶち壊した)
トラウマでガチガチに固まってたガキが、初めて、自分の意志で、盾を構えた。
たった一匹、ゴブリンを弾いただけだ。
だが、こいつにとっちゃ、とんでもねぇ、一歩だ。
オレは、アヤの変化を、傍らで見ていた。
さっきまで、泥の中でうずくまって、「ごめんなさい」しか言えなかった少女。
その背中に、今、ほんの少しだけ、芯が通っている。
(……変わりやがったな)
ほんの、わずかな変化だ。
だが、確かに、こいつは、自分の足で、立った。
不器用で。臆病で。どうしようもなく、自己肯定感のねぇガキだが。
その奥には、ちゃんと、前を向こうとする、強さがある。
それを、初めて、こいつ自身が、垣間見た瞬間だった。
(ま、上出来だ)
オレは、内心で、ニヤリと笑った。
――だが。
オレの全身の毛穴が、一気に、開いた。
首筋の産毛が、ぞわりと、逆立つ。
(……ヤバいのが、来てやがる)
歴戦の勘が、けたたましく、警鐘を鳴らす。
森の奥から、地面を揺らすような、不気味な気配が、近づいてくる。
「アヤ! 前に出るぞ!」
オレは、まだ余韻に浸っているアヤの腕を、強引に引っ張り、前へと押し出した。
「えっ……!?」
「いいから! オレの言うとおりに、言え!」
戸惑いながらも、アヤが、こくりと頷く。
その目に、さっきまでの怯えだけじゃない、オレへの、わずかな信頼が、宿り始めていた。
「ヘイトを、自分に集めるスキルだ! 腹の底から、叫べ! ――【敵意の咆哮】!!」
「て、敵意の咆哮ッ!!」
アヤの体から、赤い波紋のようなオーラが、放射状に広がる。
森の中に散らばっていた、数匹のゴブリンの視線が、ピタリと。
一斉に、アヤ一人へと、集中した。
「ど、どうするの……っ!?」
四方から殺気を向けられ、アヤが、不安げにオレを見る。
「何もするな! 耐えろ! あんな、なまくら棒じゃ、お前の盾は、絶対に壊れねぇ!」
ギギャアッ!! と、ゴブリンたちが、一斉に飛びかかってくる。
棍棒が、錆びた剣が、大盾に叩きつけられる。
ガァン! キィン!
だが、アヤの盾は、びくともしない。
雑な攻撃は、分厚い盾の表面で弾かれ、ゴブリンどもが、大きくバランスを崩した。
「今だ! 魔法使いの名前を、叫べ!」
「ジャミンさん!!」
「わかってるわよ!!」
アヤが叫ぶより、早く。
魔法使いのジャミンは、すでに、詠唱を終えていた。
「【炎の矢】!!」
ヒュンッ! ドガァン!!
無数の炎の矢が、体勢を崩したゴブリンたちに、次々と突き刺さる。
肉の焦げる、強烈な臭い。
「ボサッとするな、次だ!」
オレは、言葉で、アヤの背中を叩く。
炎を免れた一匹を、アヤが盾で、力任せに弾き飛ばす。
「戦士の名前を、叫べ!」
「ロンさん!!」
「おうよ!!」
弾かれて無防備になったゴブリンの脳天に、戦士のロンの大剣が、振り下ろされる。
ズバァン!! と、緑の体液が、宙を舞った。
「まだだ! いいか、絶対に、後ろを取られるな! 全部の敵を、正面に捉えろ!」
「はいっ!」
だが。
死角の、右側面。
深手を負った一匹が、放った汚い矢が、アヤの太ももを、掠めた。
「痛っ……!」
顔をしかめるアヤ。
だが――痛みは、あるのに。血が、出ていない。
淡い、緑色の光が、アヤの足元から、ふわりと立ち昇る。
傷口が、シュルシュルと、塞がっていく。
「……え?」
驚いて振り返るアヤの後ろで。
杖を構えたヒーラーのナミが、パチン、とウインクをしてみせた。
「ナミ、さん……」
オレは、アヤの隣で、腕を組み、ニヤリと笑った。
「見ろ。お前が、前線で踏ん張れば。味方は、誰も、傷つかねぇ。
だからこそ、味方は、全力で、お前を助けてくれる」
「……うん」
「勇者が、偉そうに指示する必要なんて、ねぇ。
圧倒的なリーダーシップも、いらねぇ。
お前に必要なのは――」
オレは、残るゴブリンを見据えながら、アヤの背中を、ぽんと叩いた。
「背中を預けられる、『友達』だ」
アヤの瞳から、すっと、迷いが消えた。
「ロンさん、ジャミンさん! お願いします!」
その声に、もう、震えはなかった。
「任せな!!」
「いっくわよー!」
戦士の剣閃と、魔法使いの炎が、再びゴブリンたちを包み込む。
あっという間に、群れは、完全に沈黙した。
「やった……!」
「アヤ、あんた、意外とやるじゃない!」
仲間たちが、歓喜の声を上げる。
初めて、仲間と連携し、自分の力で勝利を掴んだアヤの顔に。
信じられない、という、それでいて、心の底から嬉しそうな、笑みが浮かんだ。
――だが。
その、瞬間。
オレの、全身の毛穴が、再び、開いた。
ズズズズズ……ッ。
森の奥から、地面を揺らす、地鳴り。
太い木々を、バキバキとへし折る、轟音。
歓喜に沸いていた仲間たちが、ピタリと、動きを止める。
生温かい風と共に、流れてくる。
強烈な、獣の血の匂い。
「……おいおい、マジかよ」
森の奥の暗がりから。
ぬっ、と。
見上げるほど、巨大な影が、姿を現した。
赤黒く隆起した、岩のような筋肉。
通常のゴブリンの、三倍はある、巨躯。
黄色く濁った、残忍な瞳が、オレたちを、捉える。
『ゴブリン・キング』。
つい今しがた、初めての勝利に、笑い合ったばかりだってのに。
その絶頂に、叩き落とすように。
規格外の、絶望が、姿を現した。
「……冗談じゃねぇぞ。こんなの、初級クエストで出てきていい、バケモンじゃねぇ……ッ!」
オレは、引き攣る顔で、その巨体を見上げた。
ようやく、立ち上がったばかりの、小さな勇者。
その前に立ちはだかる、あまりにも巨大な、壁。
戦いは、まだ。
始まったばかりだった。




