2日目『一歩』
鼻を突くのは、いつも、線香の匂いだった。
灰色の空から、冷たい雨が降り注いでいる。
黒い傘の波が、ゆっくりと揺れる中。
私は、棺の中で眠るお父さんの顔を、見つめていた。
白蝋のように、冷たくて。
まるで、作り物みたいだった。
私は、地球では、ずっと一人だった。
人見知りで、クラスにも馴染めなくて。
休み時間は、いつも、中庭の花壇の前にいた。
花は、私を笑わない。
何も言わずに、ただ、咲いている。
花と、心の中で話すのだけが、私の、唯一の癒しだった。
そんな私にとって。
家族だけが、本当の、居場所だった。
特に、お父さん。
不器用で、口下手だけど。
誰よりも優しくて、頼りになる、お父さん。
初めて、自転車に乗れた日。
転んでも、転んでも、大きな手が、何度でも、背中を支えてくれて。
やっと乗れた私の頭を、くしゃくしゃに撫でながら。
「アヤなら、できる。やればできるじゃねーか」って。
そう言って、笑ってくれた。
なのに。
小学六年生の、あの日。
お父さんは、あっけなく、いなくなった。
「お母さん……」
葬式の日。
私は、隣に立つ母の、コートの袖を、そっと引っ張った。
振り返った母の目は、焦点が、合っていなかった。
私の声なんて、聞こえていないみたいに。
ただ、虚空を、見つめている。
繋いだ手は。
冬の窓ガラスよりも、ずっと、冷たかった。
あんなに明るくて、よく笑っていたお母さんは。
お父さんが死んでから、心を、病んでしまった。
笑わなくなった。
私を、見なくなった。
家の中の空気が、ずっと、凍りついたまま。
仲が良かった、温かい家族が。
たった一人を失っただけで、こんなにも、あっけなく、崩れていく。
その、戸惑い。
足元が、ガラガラと崩れていくような、恐怖。
そして――孤独。
私の世界からは、もう、光が、消えてしまった。
(……っつー過去を、【Book】のカルテで読まされてんだがよ)
オレは、青白い文字を睨んで、舌打ちした。
(こんなもん抱えて、よく今日まで息してたな。……上等だよ、お前)
†================†
鼻にこびりつく匂いが、やがて。
チョークの粉と、湿った雑巾の、悪臭に変わる。
高校。
私を待っていたのは、過剰な、いじめだった。
机の上に、ばら撒かれた、白い粉。
黒板に、びっしりと書かれた、私を呪う言葉。
『空気読めよ』
『お前がいるだけで、息が詰まる』
クスクスという笑い声が、耳の奥で、粘りつくように、反響する。
家にも、居場所がない。
学校にも、居場所がない。
私は、どこにも、いられなかった。
逃げるように。
私は、息を引き取った。
冷たいコンクリートの地面に叩きつけられた、あの鈍い衝撃と、血の匂いだけが。
私にとっての、最後の、現実だった。
次に、目を覚ましたのは。
底抜けに白い、何もない、空間だった。
目の前に、完璧な造形の、女が立っている。
透き通る肌に、精巧に整った顔立ち。
満面の、笑み。
なのに。
その瞳には、何の感情も、宿っていなかった。
ガラス玉みたいに、空虚で。
「あなたは、選ばれた勇者です。異世界アスガルドを、救う使命があります」
抑揚のない、機械みたいな声。
「い、嫌です。家に、帰してください」
私は、震える声で、抵抗した。
「これは、決定事項です」
女は、瞬き一つ、しなかった。
私の言葉なんて、最初から、聞いていない。
ただ、用意された台本を、読み上げるだけ。
私が、どれだけ泣いて、訴えても。
その、貼り付けたような笑顔は、一ミリも、崩れなかった。
恐ろしかった。
心が、ないみたいだった。
「帰して。私は、お家に……」
そう、言いかけて。
私は、ふと、考えた。
――帰って、どうするんだろう。
お父さんは、いない。
お母さんは、私を見ない。
学校には、私を笑う人たちが、いる。
地球に帰っても。
私には、もう。
どこにも、帰る場所なんて、なかった。
「…………」
込み上げてきたのは、悲しみと、それを通り越した、深い、諦めだった。
どうだって、いい。
どこに行ったって、私は、お荷物で、サンドバッグで。
誰にも、必要とされない。
だったら、もう。
「……好きに、して」
私は、女神に、そう言った。
抵抗する気力も。
生きる気力も。
何もかも、なくして。
私は、この、剣と魔法の世界に、勇者として、落とされた。
†================†
――それから。
私は、戦いから、ずっと逃げ続けた。
魔物が怖くて。人が怖くて。
宿屋の部屋の隅で、膝を抱えて。
ただ、時間が過ぎるのを、待っていた。
気づけば。
旅に出るまでに、とんでもない、日数が、経っていた。
引きこもったまま、何もできないまま。
ただ、息をしているだけの、毎日。
私は、勇者なんかじゃ、ない。
ただの、抜け殻だ。
†================†
カビと埃の匂いが染み付いた、薄暗い宿屋の一室。
軋む木製ベッドの上で、アヤは、ボロボロの毛布に包まり、カタカタと震えていた。
オレは、腕を組み、その背中を静かに見下ろしていた。
(……ひでぇな、こりゃ)
脳内に、【Book】を展開する。
青白い光の文字が、空中に浮かび上がった。
『対象の精神状態:重度の自己肯定感欠如、および回避傾向』
『推奨アプローチ:威圧の排除。共感による、安全な関係性の再構築』
(根っこまで、腐りきった環境で、心が、完全に折れてやがる。
……ただの、逃げ癖じゃねぇ。これは、生きるための、防衛本能だ)
オレは、舌打ちを飲み込み、大きく息を吐いた。
オレは威圧感を、完全に、消し去る。
喉の奥のトーンを、極限まで、下げる。
前世で、行き場のないガキ共の面倒を見てきた時の、プロのスイッチを、入れる。
「……アヤ。聞こえるか」
ビクッと、毛布の中の小さな体が、跳ねた。
オレは、ベッドの縁に腰掛け、ゆっくりと、だが、はっきりと、言葉を紡ぐ。
「地球でのこと……辛かったな。
誰も、助けてくれなくて。苦しかっただろ」
「……っ」
毛布の隙間から、しゃくり上げるような、嗚咽が漏れた。
慰めなんて、求めちゃいねぇ。
ただ、こいつが抱えてきた痛みを。
痛みとして、認めてやる。それだけでいい。
「だがな、よく聞け。
ここは、地球じゃねぇ。
お前はもう、誰かのサンドバッグに、ならなくていいんだ」
「でも……私、なんにも、できない……。
みんなの、足手まといに……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「その言葉だ」
オレは、アヤの震える肩越しに、静かに告げた。
「まずは、その『ごめんなさい』を、『お願いします』に変える練習からだ。
謝るな。頼め。
お前は、一人で、戦ってるんじゃねぇ」
オレの言葉に。
アヤが、ゆっくりと、毛布から顔を出した。
目は、真っ赤に腫れ上がり。
唇は、血が滲むほど、噛み締められている。
だが、その瞳の奥に。
わずかだが、「この地獄から、抜け出したい」という。
しがみつくような、光が、あった。
†================†
冒険者ギルドは、酸っぱいエール酒と男たちの汗の匂いが充満していた。
オレは、ギルド長に頼み込み、一度散り散りになりかけていたアヤのパーティー――戦士、魔法使い、ヒーラーの三人を、もう一度集めてもらった。
「……あの、すみません」
アヤが、震える声で、テーブルに近づくと。
三人の視線が、氷のように、冷たく突き刺さった。
「なんだよ。また、盾捨てて逃げる気か?」
「ほんと、あんたのせいで、苦労してるんだから」
(クソガキ共が。テメェらの連携不足は、棚に上げてよ……)
オレは、横で、奥歯を噛み鳴らす。
手出しできねぇルールが、これほど、もどかしいとはな。
だが、ここは。
アヤの、戦いだ。
「……ごめ……っ」
アヤの口から、反射的に、謝罪が出かかる。
オレは、無言で、アヤの視界に入る位置に、スッと動いた。
そして、前を向け、と顎でしゃくる。
アヤは、ハッと息を呑み。
ギュッと、スカートの裾を、握りしめた。
そして、深く――90度に、頭を、下げた。
「昨日は、申し訳、ありませんでした……!
でも、もう一度だけ……もう一度だけ、私に、チャンスを……お願いします!」
声は、震えていた。
顔は、青ざめていた。
だが、その言葉は、確かに。
「ごめんなさい」からの、逃避じゃなく。
前を向くための、「お願いします」だった。
戦士たちが、顔を見合わせ、大げさにため息をつく。
「……チッ。しょうがねぇな。
ちょうど、人手不足のクエストがある。難易度2の、ゴブリン退治だ。
これで使えなかったら、マジで、解散だからな」
アヤが、何度も、頭を下げる。
オレは、腕を組み、鼻で笑った。
(上等じゃねえか。見てろよ、三流共。
ウチの勇者を、舐めんなよ)
†================†
森の奥深く。
腐った落ち葉と、獣の糞の匂いが鼻を突く。
薄暗い木漏れ日の中。
前方の開けた場所に、ゴブリンの集落があった。
数匹の醜い魔物が、錆びた鉈や棘のついた棍棒を手に、たむろしている。
「出たわね。アヤ、さっさと前に出て、タゲ取りなさいよ!」
魔法使いの指示。
だが、アヤの足は。
地面に縫い付けられたように、動かない。
(マズいな。完全に、ビビっちまってる)
オレが、指示を飛ばそうと、口を開いた、その瞬間だった。
――ブツンッ。
オレの脳の奥で、嫌な、ノイズが鳴った。
(……あ?)
視界が、ぐにゃりと、歪む。
緑色だった森の木々が、どす黒い染みのように、変色していく。
腐葉土の匂いが消え、代わりに、鼻腔を埋め尽くしたのは――チョークの、粉の匂い。
(なんだ、これは……ッ!)
目の前で、鉈を振り上げるゴブリンの体が。
突如として、ノイズ混じりに、書き換わっていく。
緑の肌が、見覚えのない、高校の、制服に。
醜い顔が、こちらを、嘲笑う、見知らぬ生徒の顔に。
森の中にいたはずのゴブリンたちが、一人、また一人。
黒く染まり、制服を着た、人間の影へと、変わっていく。
その一人一人が。
すごい目で、アヤを――いや、オレを、見ている。
怒り? 悲しみ?
いや、違う。
これは、人を、心底から蔑んだ、目だ。
『なんで、お前が生きてんの?』
『空気読めよ』
『怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い』
(……っ、これは……アヤの、フラッシュバックか!?
感覚共有で、こいつの見てる地獄が、オレにまで、流れ込んできてやがる……!)
胃の奥が、急速に、冷える。
心臓が、肋骨を、叩き割るように、暴れ出す。
ただのゴブリンが、おぞましいグロテスクな悪魔に、見える。
息が――息が、吸えない。
『助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて』
隣を見ると、アヤが、両手で頭を抱え、白目を剥きそうなほど、目を見開いて、硬直していた。
絶望的な、恐怖。
底なしの、無力感。
アヤの、限界を超えた狂乱が。
荒れ狂う濁流となって、オレの精神を、直接、犯していく。
「ハァッ……! ヒューッ、ハァッ……ハァッ……!!」
喉が、激しく引き攣る。
極度の、過呼吸。
ガタガタと、両手が、痙攣したように震え、足の感覚が、消えていく。
この場所から、逃げ出したい。
今すぐ、走って、逃げ出してしまいたい。
そんな、衝動に、駆られる。
(……ふざ、けんな)
オレは、魔王を、単独でぶっ殺した、男だぞ。
こんな、女子高生の、幻覚なんかに。
精神を、乗っ取られて、たまるかよッ!
「うっっっせえええええええッ!!!!」
オレは、固く握り込んだ右の拳を、振りかぶった。
そして――自分自身の顔面を。
十歳の、可憐な少女の顔面を、全力で、殴り飛ばした。
ゴキッ!!
鈍い、骨の音。
脳を揺らす、強烈な、衝撃。
鼻腔の奥で、生温かいものが弾け、鉄の味が、口の中に広がる。
「ガハッ……! 痛ってぇ……!!」
だが。
その、物理的な激痛が。
脳内を犯していた、幻覚のベールを、パリーンと、粉々に砕き割った。
制服姿の影は、消え去り。
泥臭い、異世界の森と、醜悪なゴブリンの姿が、視界に、戻ってくる。
(……っ、戻った……!)
鼻血を、ポタポタと垂らしながら。
オレは、硬直したままのアヤに歩み寄り、その胸ぐらを、思い切り掴んで、引きずり起こした。
「立てぇッ!!」
「ひっ……!」
「目ェ覚ましやがれ、アヤ! よく見ろ!
あれは、テメェを苛めてたクズ共じゃねぇ! ゴブリンだ!
そして、その後ろにいるのは――お前が、守るべき、味方だろうが!」
血まみれのロリ少女に怒鳴りつけられ。
アヤの瞳に、スッと、光が戻った。
幻覚から引き剥がされた彼女は。
目の前の現実を――自分に向かって飛びかかってくるゴブリンを、確かに、認識した。
「鑑定で、見てたぜ。お前には、固有スキルがある。
ビビって、封印してたんだろうが……今すぐ、出せ!」
「す、スキル……っ」
「いいから出せ! 構えろ!!」
アヤが、震える両手を、前に突き出す。
「……【大盾】……ッ!」
カァァン!! という甲高い音と共に。
光の粒子が収束し、アヤの目の前に、巨大な物体が、顕現した。
それは、小柄な彼女の、身の丈ほどもある。
分厚く、巨大な、鋼の盾だった。
ドスゥン!!
飛びかかってきたゴブリンの棍棒が、大盾に、激突する。
だが、アヤの体は。
一歩も、後ろに下がらなかった。
「えっ……?」
アヤ自身が、一番、驚いていた。
見た目の重厚さに反して、その盾は、羽根のように軽く。
彼女の腕に、完全に、フィットしていたのだ。
「ヘッ、やればできるじゃねーか」
オレは、鼻血を手の甲で拭いながら、ニヤリと、笑った。
その言葉に。
アヤの瞳が、わずかに、揺れた。
(……今の、言葉)
ゴブリンの攻撃を、見事に防ぎ切ったアヤの背中は。
もう、震えていなかった。
戦いは、まだ、始まったばかりだ。
だが、確かに。
この小さな勇者は、たった今。
自分の意志で、初めての一歩を、踏み出したのだった。




