1日目『最弱』
鼻を突くのは、雨上がりの腐葉土と、青臭いシダ植物の匂いだった。
ぬかるんだ地面を踏みしめるたび、グチャリと嫌な音が耳にまとわりつく。
「…………」
オレは今、薄暗い森の中で、ある違和感に気づいていた。
手足が、やけに、小さい。
視界が、いつもより、低い。
肩の先で、見覚えのない長い髪が、サラサラと揺れている。
(……は? なんだこりゃ)
嫌な予感がして、オレは近くにあった水溜まりを覗き込んだ。
泥水の鏡に映っていたのは。
銀色の長い髪に、透き通るような白い肌をした。
どう見ても、十歳そこそこの、可憐な、少女だった。
大きな碧眼が、パチパチと、瞬きをしている。
「……は? はぁ!?」
オレは、自分の頬をペタペタと触った。
柔らかい。すべすべしてやがる。
間違いねぇ。
前世で魔王をぶっ殺した、三十路のオッサンだったはずのオレが。
今、こんな、ちんちくりんな、女のガキに、なっている。
「何の、意味があるんだよ! ふざけんな、クソ女神ァ!!」
オレは、頭を掻きむしり、空に向かって中指を立てた。
声まで、高くて、舌っ足らずだ。
喉の奥から絞り出したドスの効いた怒声も、小鳥のさえずりみたいに愛らしく響きやがる。
あの、感情のないサイコ女神の、嫌がらせか。
教育係だかなんだか知らねぇが、なんでこんな姿に。
「……ちっ。文句言ってても、始まらねぇか」
苛立ち任せに、近くの石ころを蹴り飛ばそうとするが。
短い足のせいで見事に空振りし、バランスを崩して泥濘に尻餅をついた。
「いてっ……クソがッ!」
冷たい泥がスカートに染み込んでいく感覚に、奥歯をギリリと噛み鳴らす。
†================†
まずは、状況の把握だ。
オレは、気を取り直して口を開いた。
「ステータス、オープン」
ピコン、と。
空中に、半透明の青白いウィンドウが浮かび上がった。
そして、その横に。
あのクソ女神からの指令文とやらが、表示されている。
オレは、それを上から舐めるように読んでいった。
『勇者育成課職員へ。担当勇者の情報を、開示します』
『──担当勇者:アヤ(井上綾)。性別:女。年齢:17歳。
転生後、約二年。気弱な性格と、極度の人見知りにより、長らく宿屋に引きこもっていた。
見かねた冒険者ギルドのマスターの計らいで、ようやくパーティーが結成される。
しかし、即席のパーティーは連携が取れず、序盤のモンスターにすら、敗北を喫している有様。
このままでは早晩、全滅は免れない。
貴方には、この勇者パーティーに同行し、彼らを育成することを命じる』
「……は? 二年も、何やってたんだよ、このガキ」
オレは、思わず画面に向かって悪態をついた。
「引きこもりって……やってられるかよ。
さっさと育てて、地球に帰してもらうんじゃなかったのか、オレは」
冗談じゃねぇ。
こいつは、想像以上に、命がけのお守りだ。
次に、オレは自分のスキル欄を確認した。
それぞれに、簡単な説明文が添えられている。
『一、認識阻害:敵から、一切認識されずに行動できる』
「まあ、隠密行動には、困らねぇってことか」
『二、マップ:担当勇者の現在地が、赤く点滅して表示される』
「ゲームかよ。まあ、迷子探す手間は、省けるな」
『三、鑑定:対象の名前、職業、ステータス、固有スキルなどを、確認できる』
「お、これはチートじゃねーか。相手の手の内が、丸わかりってわけだ」
『四、Book:困った時、優秀なカウンセラーの参考書を呼び出し、閲覧できる』
「……だから、なんなんだよ、その『Book』ってのは。攻撃魔法は、ねぇのか」
相変わらず、教育係には、攻撃手段が一切ない。
できるのは、口での『助言』だけ。
手出しは、一切、禁止。
(……つくづく、縛りプレイだぜ。
担当のガキが、ピンチに陥っても。オレは、横で口出しするだけの、おしゃべり野郎ってわけだ)
ため息が、出る。
だが、ルールはルールだ。文句を言っても、あの女神には通じねぇ。
「……さっさと、終わらせるか」
オレは、スキル【マップ】を起動した。
ピコピコと、緑色の網目状の地図上に。
赤い光点が一つ、点滅している。
距離は、近い。
オレが落とされた場所から、それほど離れていない。
「ちっ。仕方ねぇ。行くか」
オレは、泥だらけのスカートをパンパンと払い。
赤い点滅へと向かって、しぶしぶ歩き出した。
鬱蒼と茂る木の枝が、顔にビシビシと当たる。
オッサンの感覚で、大股に歩こうとするが。
物理的に足が短すぎて、完全にガニ股の不格好なペンギン歩きになっていた。
「やってられるか、こんなクソゲー……!」
悪態をつきながら、オレは森の奥へと進んでいった。
†================†
しばらく歩くと、開けた場所で戦闘の喧騒が聞こえてきた。
オレは、そっと茂みの陰から様子を窺った。
そこには。
三匹の、緑色の醜い魔物――ゴブリンと。
それを相手に、ドタバタと、無様に立ち回る、四人組の姿があった。
「おい、アヤ! お前が前に出ないと、後衛が魔法を撃てないだろ!」
「ちょっと、早くヘイト稼いでよ! 私の方に、一匹来てるじゃない!」
罵声を浴びせられているのは。
小柄な、女の子。
(……あれが、担当の勇者。アヤ、か)
オレは、スキル【鑑定】で、その少女のステータスを覗き見た。
『職業:タンク(重戦士)』
(なるほど。防御力と体力に特化して、敵のヘイト――敵意を集めて、味方を守る、壁役か。
RPGの、基本中の基本だな)
だが、現実は、地獄だった。
「ひぃぃっ!」
ゴブリンが迫ってきた恐怖で。
タンクであるはずのアヤが、持っていた盾を、あっさり放り捨て。
全速力で、逃げ回り始めたのだ。
(おいおいおい! タンクが、背中見せて走るな!
お前が逃げたら、敵が散らばるだろうが!)
案の定、ゴブリンの標的がバラけ、一匹が、後衛の魔法使いに向かって走り出す。
「きゃあっ! なんで、こっちに来るのよ!」
「チィッ! 俺がやる!」
戦士が、慌ててカバーに入ろうとするが、動きが、直線的すぎる。
しかも、魔法使いはパニックで杖を振り回し、戦士の背中越しに、火球を放とうとしている。
(バカ、アタッカー! 前衛の射線に、被ってんぞ! 誤爆する気か!)
「回復! 早く回復して!」
「えっ、あ、はいっ! ……あれ、呪文って、どうだっけ!?」
ヒーラーに至っては、テンパって詠唱を中断し、オロオロと杖を握りしめているだけ。
(ヒーラー、詠唱止まってんじゃねえか! お前ら、連携って言葉を、知らねぇのか!?)
前衛は逃げ、アタッカーは同士討ち寸前、ヒーラーは置物。
ネトゲなら、開始十秒でレイド崩壊。
チャット欄が、罵詈雑言で埋め尽くされるレベルの、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
「……マジかよ。これで、『初級クエスト』か……?」
オレは、頭を抱え、少女の顔を、思い切り歪ませた。
結局、戦士が力任せにゴブリンを一匹叩き斬り、残りの二匹が怯んで逃げていったことで、戦闘は終わった。
だが、勝ったというより、「運良く生き延びた」だけだ。
†================†
「はぁ、はぁ……ふざけんなよ、アヤ! お前がちゃんと盾やらないから、俺が死にかけたぞ!」
「本当に、役立たずなんだから!」
戦士と魔法使いの罵声が、森に響く。
アヤは、地面に正座したまま、ただガタガタと震え。
消え入りそうな声で、「ごめんなさい」を、繰り返していた。
パーティーメンバーたちが、舌打ちを残して、休憩のために少し離れた水場へ向かっていく。
ぽつんと一人、残されたアヤに。
オレは、近づいた。
「……おい。ちょっと、話そうぜ」
アヤが、ビクッと、肩を跳ねさせる。
オレの姿を視界に入れるなり、怯えた小動物のように、身体を丸めた。
オレの姿と声は、担当勇者である、こいつにしか、届かない。
だから、いきなり虚空から声をかけられて、ビビってやがる。
「オレは、天界の、勇者育成課ってとこから、派遣された者だ。
お前と同じ、地球からの転生者だよ」
少しでも警戒を解こうと、できるだけ、声を低く、ゆっくりと、紡ぐ。
「て、天界……勇者育成……?」
「ああ。あのクソ女神の、差し金でな」
その瞬間。
『女神』という単語を出した途端、アヤの顔色が、紙のように、白くなった。
瞳孔が開き、呼吸が、過呼吸気味に、荒くなる。
「いやっ、こないで! あんな女神の言うことなんて、信用できない!
私を、放っておいて!」
(……ヤバいな、こりゃ)
完全に、パニック状態だ。
言葉が通じる、精神状態じゃねぇ。
「おい、待て。落ち着け。オレは、お前を助けに……」
「いやぁっ!」
オレが言い終わるより早く。
アヤは、弾かれたように立ち上がると。
泥だらけの靴で、鬱蒼と茂る、森の奥深くへと、走り出した。
「あっ、おい! 待て!」
オレは、慌てて、後を追う。
だが。
「はぁっ……はぁっ……クソッ、足が……!」
十歳の少女の身体能力は、絶望的なまでに、低かった。
必死に地面を蹴るが、歩幅が狭すぎて、全く前に進まない。
少し走っただけで、肺が焼けるように熱くなり、ヒューヒューと、情けない音が鳴る。
「待てって……言ってんだろ……!」
視界の先。
木々の隙間を縫って、逃げていくアヤの背中が、どんどん、小さくなっていく。
ついに、足がもつれ。
オレは、ズザァッと、泥の中に、膝をついた。
「はぁ……はぁ……ちくしょう」
泥まみれの両手を地面につき、激しく肩を上下させる。
前世で魔王をぶっ飛ばした、このオレが。
不登校の女子高生一人、捕まえることも、できねぇのかよ。
「……一筋縄じゃ、いかねーか」
オレは、見上げた、薄暗い空に向かって、悪態をついた。
正直、苛立っていた。
なんで、オレが。こんな、何にもできない、逃げてばっかりのガキの、お守りを。
(……はぁ。自分でやった方が、百倍早ぇってのに)
手出しできないルールが、恨めしい。
こんな腑抜けたガキに、寄り添ってやる義理も、正直、感じねぇ。
だが――このままじゃ、アヤは、確実に、魔物の餌食になる。
そして、運命共同体のオレも、道連れだ。
(……絶対に、死なせねぇ。オレの、平穏な死後のためにも、な)
オレは、泥だらけの顔を上げ。
アヤが消えた、深い森の暗がりを、ギリッと、睨みつけた。
最悪の、出会いだった。
これが、最強の元勇者と、史上最弱の勇者の。
長い長い、地獄の始まりだとは。
この時のオレは、まだ、知る由もなかった。




