プロローグ「辞令」
チィィィィィィィン、と。
耳鳴りに似た、澄んだ高い音が聞こえたら――もう、手遅れだ。
目の前で、少女が笑う。
ひまわりみたいな、満面の笑顔で。
やっと勝てた、やっと立てたって、泣きながら。
その笑顔が、鼻から上ごと、弾け飛んだ。
理不尽な、極太の光の線。
熱い飛沫が、オレの顔面に降り注ぐ。
守れなかった。
何度、やり直しても、だ。
積み上げた全部が塵になって、世界は、また振り出しに戻る。
(……ふざけんな。何度目だよ、クソが)
これは、そういう地獄の話だ。
――全部の始まりは、オレがまだ何も知らねぇで、「やっと終わった」なんてヘラヘラ眠りこけてた、あの夜。
魔王を、ぶっ倒した夜だった。
鼻腔の奥にこびりついて離れなかった、鉄錆のような血の匂いと、魔物の臓物が腐ったような酷い悪臭。それがようやく、高級な香木が燃える甘い匂いに上書きされた。
右手には、魔王の太い首の骨を両断した時の、あの重く不快な感触がまだ微かに残っている。だが、それももう過去の出来事だ。
「さぁ、勇者様。今日はゆっくりと、旅の疲れを癒してください。貴方は世界の救世主です」
豪奢なドレスを纏った王女が、大粒の涙を流しながらオレの手を握り締めて言った言葉を反芻する。
背中を包み込んでいるのは、ゴツゴツとした岩肌でも、冷たい野営地の地面でもない。体が沈み込むような、雲みたいに柔らかい最高級の天蓋付きベッドだ。滑らかなシルクのシーツが、傷だらけの肌に心地よく擦れる。
窓の向こうからは、夜通し続くであろう王都のどんちゃん騒ぎが、微かな地鳴りのような振動となって窓ガラスを揺らしている。祝杯で飲んだ極上の年代物ワインのアルコールが、血液を温かく巡っていた。
(長かった……。マジで長かったぜ……)
思えば地球でトラックに轢かれて死んだあと、右も左もわからねぇままこの異世界にポンと放り出され、勇者だなんだと持ち上げられた。泥水を啜り、仲間の死骸を乗り越え、何度も心が折れかけながら、それでも剣を振り続けた。
そして今日、ようやく……やっと、終わったんだ。
(これからは気ままな老後だ。国から支給される莫大な年金で、朝から晩まで酒を飲んで、一生遊んで暮らしてやる……!)
安堵感という名の強烈な麻酔が、オレの意識を深い闇へと引っ張り込んでいく。瞼が重い。もう、戦わなくていい。
オレは深い深い、至福の眠りへと落ちていった。
†================†
──ピシャッ、という冷たい感覚。
無臭だ。さっきまで鼻腔を満たしていた香木の甘い香りも、極上ワインの芳醇な匂いも、何一つ感じねぇ。
それだけじゃない。背中を包んでいたはずの極上の柔らかさが消え失せ、冷たくて硬い平坦な床の感触が、直接肩甲骨から伝わってくる。
(……おいおい、マジで言ってんのか。なんだよこれ。寝相が悪くてベッドから落ちたのか?)
だが、まぶたの裏がやけに眩しい。目を瞑っているというのに、強烈な白い光が網膜を焼くように突き刺さってくる。
「素晴らしい! 初めて魔王討伐を果たした、真の勇者です!」
鼓膜を直接ぶん殴るような、明るすぎて感情の全く篭っていない甲高い声。
パチン、パチン、パチン、パチン。メトロノームか何かのように、寸分の狂いもない一定のリズムで響く乾いた拍手の音。
オレは弾かれたように体を起こした。
「……ッ!」
視界に飛び込んできたのは、無限に広がる真っ白な空間だった。壁も天井もない。ただ底抜けに白く、光源もないのに眩しく光り輝いている。
(ヤバいヤバいヤバい! なんだってんだよ、ここは!)
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。無意識に、呼吸が浅く速くなる。自分の首筋をガシガシと撫で回すが、嫌な冷や汗が滲んでいるだけだ。
目の前には、完璧な造形の女が立っていた。透き通るような白い肌に、黄金比で精巧に作られたような顔立ち。唇は美しい弧を描き、満面の笑みを浮かべている。
だが、その目玉には一切の感情が宿っていねぇ。精巧なマネキンのように、ガラス玉みたいに空虚な瞳だ。
「テメェ……!」
忘れるはずもねぇ。地球で死んだ直後、オレが最初に目を覚ましたのがこの異常な空間だ。そして、この胡散臭い笑顔を貼り付けた女こそが、オレをあの地獄みたいな異世界に強制送還しやがった元凶たる「女神」だった。
「ふざけるな! 何でまたここなんだ!」
オレは喉が裂けるほどの怒号を叩きつけた。こめかみの血管がドクドクと脈打つのが自分でもわかる。せっかく魔王を倒して、最高のニート生活を手に入れたってのに、なんでまたこのクソッタレな初期部屋に戻されてるんだよ!
オレは床を強く蹴り上げ、女との距離を一気に詰める。その無駄に整った胸ぐらを掴み上げ、壁があるならそこに思い切り叩きつけてやろうと右手を伸ばした。
「ああ!?」
だが、オレの指先は空気を掻き切るだけで、女の体をスゥッとすり抜けた。ホログラムか何かなのか、物理的に触れることすらできねぇ。
「……ッ、舐めやがって!」
「その輝かしい功績を称え、貴方を『勇者育成課』に配属し、新人勇者の教育係を命じます」
「話ができねぇのかテメェは! NPCか!? さっさと元の世界に戻せ!!」
オレの怒鳴り声なんて一切聞こえていないかのように、女神は一切微動だにせず、瞬きすらしない。まるで用意されたスクリプトを読み上げるだけの機械だ。
「これは決定事項です。貴方には、これから魔王討伐へ向かう未熟な勇者たちを導く、素晴らしい名誉が与えられました」
(ふざけんな、ふざけんなよ! なにが名誉だ、なにが教育係だ! オレの年金生活を返せ!!)
頭を両手でガシガシと掻き毟る。爪が頭皮に食い込む痛みが、これが悪夢じゃなくて現実だってことを残酷に教えてくれる。
「断る! 絶対に断るからな! オレはもう戦わねぇ、あのふかふかのベッドに戻してくれ!」
「……業務を全うすれば、貴方が望む『地球への帰還』を叶える特例措置が適用される可能性があります」
ピタッと、オレの動きが止まった。
『地球への帰還』。その言葉が、耳の奥でガンガンと反響する。
(……地球に?)
異世界の城で、美味い飯食って昼寝するのも悪くねぇと思ってた。だが、あの薄汚れた東京の路地裏で食うコンビニ弁当の味、深夜のネオン街の喧騒、アスファルトの匂い……。
オレはまだ、それらを忘れられていない。未練がないと言えば、嘘になる。
「……チッ」
奥歯を強く噛み締める。口の中に鉄の味が広がった。
「……わかったよ。やればいいんだろ、やれば! そのクソみたいな教育係とやらをよ!」
「素晴らしい決断です!」
女神の顔は、先ほどから1ミリも変わらない完璧な笑顔のままだ。マジで一発殴りてぇ。
「では、教育係としての専用スキルとルールを付与します。説明をお聞きください」
(おいおい、オレが承諾する前から台本用意してただろ絶対……)
「一つ目。貴方の姿や声は、『担当する勇者』にしか見えず、聞こえなくなります」
「あぁ? まあ、そりゃ便利だな。誰にも見えねぇなら、敵に狙われる心配もねえってことか」
「二つ目、『マップ』。担当する勇者の現在位置が、赤く点滅して表示されます」
「……ゲームかよ。まあ迷子探す手間は省けるか」
「三つ目、『鑑定』。対象の名前、職業、ステータス、固有スキルなどを確認できます」
「お、チートスキルじゃねぇか。相手の弱点丸わかりってやつだな」
「四つ目、『Book』。困った時、優秀なカウンセラーの参考書を呼び出し、閲覧することができます」
「最後の一つは――今のあなたには、お見せできません」
「条件を満たせば、いずれ解放されます」
「ちょっと待て」
オレは手を突き出して、自動音声ガイダンスを止める。
「なんだよその『最後の一つ』って。条件ってなんだよ!いや…それよりも!攻撃魔法は? 伝説の剣のスキルは? オレ自身の攻撃力とかステータスはどうなってんだ?」
女神は、張り付いた笑顔のまま、首を僅かに傾げた。
「教育係は、あくまで補佐です。直接的な物理介入など、手出しは絶対不可能です」
「はあ!?」
「貴方ができるのは、口頭での『助言』のみです」
(……マジで言ってんのか、こいつ)
手出しが絶対不可能? アドバイスしかできない?
それじゃあ、もし担当の勇者がクソみたいなピンチに陥った時、オレはただ横で見てて口出しするだけのおしゃべり野郎になれってことかよ!
「ふざけんな! そんな縛りプレイでどうやって魔王を倒させるんだよ! 」
「安心してください。貴方はただ一人魔王討伐を果たした!伝説の勇者です。そんな素晴らしい方に教えられた勇者も最早スペシャルで最強な勇者…の筈ですので…はい!」
「親切の欠片もねぇだろうが!根性論で押しきろうとするんじゃねー」
「ああ、それと、新人勇者たちのモチベーション向上のため、貴方の外見は愛らしい美少女の姿へと再構築しておきました」
「……は?」
「貴方には、それらを乗り越えるだけの経験と知識があります。真の勇者であり、最高の美少女なのですから!」
「話聞いてんのか! 手出しができねぇだけでもクソなのに、中身三十のオッサンを美少女にしてどうすんだよ悪趣味か!!」
「……」
「笑顔で乗り越えようとすんじゃねーよ!」
イライラが頂点に達し、再び頭を掻き毟る。だが、この女に何を言っても無駄だ。暖簾に腕押し、糠に釘、サイコパスにクレームだ。
(クソッ、やってやるよ。パパッと何人か優秀な奴を見つけて指導して、サクッと地球に帰ってやる! 美少女の体なんて、鏡さえ見なきゃどうってことねぇ!)
「……あー、わかった。もういい。ルールは理解した。早くその担当ってのを教えろ。さっさと終わらせてやる」
オレがやけくそ気味に吐き捨てると、女神はこれ以上ないほど輝かしい、狂気すら感じる笑顔を作った。
「さぁ! 8192万の新人勇者が貴方を待ってます!」
「……は?」
思考がフリーズした。8192万。はっせんひゃくきゅうじゅうにまん。
(……待て待て待て。一人一年かかったとして、8千万年!? オレはアメーバから進化し直す気かよ!!)
「ちょっと待て! 8192万って数が多すぎ……」
その異常すぎる数字にツッコミを入れようと口を開いた瞬間。
ゴッ、という嫌な音がして。
足元にあったはずの、白くて硬い床が、唐突に消滅した。
「え?」
支えを失った体が、重力に引っ張られる。
「うおぉぉぉぉぉっ!?」
真っ逆さまに落ちていく。猛烈な風が耳元で轟音を立て、胃袋が口から飛び出しそうな浮遊感が全身を襲う。
上を見上げると、ぽっかりと空いた四角い光の穴の縁から、女神がこちらを見下ろしながら、相変わらず瞬き一つせずに笑顔で手を振っていた。
(クソがあぁぁぁぁぁぁっ!!)
オレの絶叫は、底知れぬ暗闇の底へと吸い込まれていった。




