12日目『後でな』
他人の過去を覗くのは、正直、好きじゃねぇ。
誰にだって、掘り返されたくねぇもんの、一つや二つはある。
墓を暴くようなもんだ。褒められた趣味じゃねぇ。
しかも、感覚共有ってやつは、たちが悪ぃ。
相手の悲しみだの、苦しみだのが、他人事として、遠くに見えるんじゃねぇ。
オレの腹に、直接、来やがる。
――アヤの時に、懲りたはずだったんだけどな。
冷てぇ。
それが、最初に来た。
鼻の奥を、乾いた冷気が、削っていく。
坂道だった。
やたら急な、コンクリートの坂。両側に、四角い建物が、隙間なく積み上がっている。
洗濯物と、室外機と、電線。
どっかの家から、煮えた汁の匂いが漏れていた。にんにくと、唐辛子だ。
原付が、けたたましい音を立てて、坂を下っていった。
(……ここは)
見上げた空は、灰色で。
ずっと向こうまで、四角い建物が、坂の上まで、びっしり並んでいた。
自分の手を、見る。
小せぇ。オレのガキの手より、まだ小せぇ。
肩に、鞄が食い込んでいた。ずっしりと、重い。
背中が、じわりと汗をかいている。
(……こいつの、中に、いるのか)
見てるんじゃねぇ。着てるんだ。
歩けば足が痛ぇし、息を吸えば冷気が喉に刺さる。
こっちの意思じゃ、指一本、動かねぇってのに。
「――ヒョン」
袖が、引っ張られた。
見下ろす。
小せぇのが、いた。
膝までの、紺のスカート。頬が、寒さで真っ赤だ。
手袋もしてねぇ手が、こっちの袖を、しっかり掴んでいる。
胸の奥で、なんかが、ぐっと動いた。
オレの感情じゃねぇ。こいつのだ。
「守る」とか「大事だ」とか、そんな言葉が浮かぶより先に。
腹の底が、勝手に、身構えた。
その手が離れねぇように、こいつは、歩幅を落とす。
――で、口を開いた。
「早く帰るぞ。風が冷てぇ」
出てきた声が、想像の三倍、優しかった。
(……は?)
オレは、面食らった。
同じ喉から出た音とは、思えねぇ。
低くて、静かで、丁寧で。
あの、酒場で椅子を投げてた男と、これが、同じ人間か。
(……お前、そんな声、出せんのかよ)
それから、何年か、飛んだ。
昼と夜が、めくれるみてぇに過ぎていく。
見えたのは、いつも、同じ景色だった。
紙。
参考書。問題集。裏が黒くなるまで書き潰したノート。
蛍光灯の下で、赤ペンを握った指。
塾から出る頃には、坂の下の店は、もう閉まっている。
廊下の壁に、紙が貼り出されていた。
上から順に、名前が並んでる。
一番上に、こいつの名前があった。
『パク・ジフン』
(……ジフン、ってのか。テメェの名前)
背中を、叩かれる。よくやった。さすがだ。あそこの子はしっかりしてる。
大人が、笑ってる。
その全部に、こいつは、頭を下げた。
「ありがとうございます」
丁寧に。感じよく。角を立てずに。
――なのに。
腹の中は、しん、としてやがった。
嬉しくもねぇ。誇らしくもねぇ。
ただ、落ちねぇように、しがみついてるだけだ。
顔と中身が、一ミリも、繋がってねぇ。
(……こんなもん、続けてたら、壊れるぞ)
そう思った時には、景色が、もう流れていた。
†================†
親父が、いなくなった日のことは、断片でしか、見えなかった。
白い花と、線香の煙と、大人の低い声。
思い出したくねぇんだろう。こいつが。
だが、その後のことは、嫌ってほど、はっきり残っていた。
狭ぇ部屋に、大人が何人も座っていた。
親戚だ。
親父の残した、なけなしのもんの話をしてやがる。
母親が、畳に手をついて、頭を下げていた。
何度も、何度も。
「お願いします」と、言っていた。
――何も、返ってこなかった。
大人たちは、茶を飲んで、荷物をまとめて、帰っていった。
一人だけ、帰り際に、こいつの頭を撫でた。
「お前が、しっかりしないとな」
(……ふざけんな)
オレの中で、何かが、沸いた。
十そこそこのガキに、何を背負わせてやがる。
胸ぐらを掴もうと、腕を上げた。
――上がらねぇ。
指も、口も、動かねぇ。
(クソが)
見てるだけだ。
このオレは、ここでも、口だけですらねぇ。
その夜。
床が、冷てぇ部屋だった。暖房の火が、もう入ってねぇ。
母親が、こいつの前に座って、両手を、握った。
働きすぎて、ひび割れた手だった。
「ジフナ」
かすれた声で、言った。
「人に、頼るな」
こいつの喉が、こくりと鳴った。
「頼ったら、さっきの人たちみたいに、持っていかれるだけだ。……弱いところを見せたら、終わりだよ」
「……うん」
「お前が、強くならなきゃ」
「……うん」
ずしり、と。
腹の底に、鉄の板でも入れられたみてぇに、重くなった。
同時に、それは、こいつの背骨になった。
(――待て。おい、待てよ)
オレは、腹の中で、怒鳴った。
(そんなもん、教えんな。頼るってのはな、弱さじゃねぇんだよ)
言葉は、どこにも、届かなかった。
†================†
妹の、咳の音が、増えていった。
夜中に、隣の部屋で、こもった咳が続く。
こいつは、その音を聞きながら、机に向かい続けた。
バイトが増えた。母親が寝込む日が増えた。
朝、家を出て、夜中に帰る。
その繰り返しの中で。
――サインは、あった。
真夏なのに、長袖を着ていた。
新しい靴が、ある日、無くなっていた。「なくした」と、笑っていた。
夕飯を、残すようになった。
携帯を、いつも、机に伏せて置くようになった。
(気づけ)
オレは、叫んだ。
(おい、ジフン、それは、そういうことじゃねぇ! 見ろ! 顔を上げろ!)
こいつは、参考書から、目を離さなかった。
疲れてたんだ。
死ぬほど、疲れてた。それだけは、痛ぇほど、伝わってきた。
そして、その日が来た。
夜中の、台所。
冷蔵庫の音だけがしてる中で、あの子が、立っていた。
「……お兄ちゃん」
「ん」
「あのね」
指が、パジャマの裾を、ぎゅっと握っていた。
爪が、白くなるくらい。
(――聞け)
(頼む、頼むから、今、聞いてやれ)
こいつは、蛍光灯の下で、赤ペンを持ったまま。
顔も、上げずに。
「……後でな。今、これ終わらせねぇと」
(聞いてやれェ――!!)
オレの声は、この頭の中で、跳ね返っただけだった。
「……うん」
小せぇ足音が、廊下を、遠ざかっていった。
パジャマの裾を握った、あの指が。
離れる音まで、聞こえた気がした。
――あの子は、頼らなかった。
頼るな、って言われて育った家で。
頼るのは弱さだって、背中で教え込まれた家で。
助けてくれ、の一言が、どうしても、言えなかったんだ。
それは、あの子のせいじゃねぇ。
こいつのせいでも、母親のせいでもねぇ。
そういう風にしか、生きられねぇ場所が、あっただけだ。
――だが。
そんな理屈は。
残された奴には、一円の価値もねぇ。
†================†
その日は、雨だった。
坂が、濡れて、光ってる。
鍵を回した。
――部屋が、寒かった。
窓が、開いていた。
カーテンが、風で、ゆっくりと膨らんでは、しぼんでいる。
雨の音が、やたら、はっきり聞こえた。
呼んだ。
返事は、なかった。
そこから先を、オレは、うまく書けねぇ。
音が、消えたんだ。
雨の音も、心臓の音も、全部。
こいつは、叫ばなかった。泣きもしなかった。
ただ、その場に、座り込んだ。
やがて、小せぇ手を、握った。
――冷てぇ。
その冷たさが、オレの手のひらにまで、来た。
指の関節の、ごつごつした感触まで。
いつまで経っても、あったかくならねぇ手を、こいつは、両手で包んでいた。
温めようとしてるんだと、分かるまでに、少しかかった。
腹の底に入れられた、あの鉄の板が。
真っ二つに、割れる音がした。
その、瞬間。
視界が、赤く、染まった。
雨も、部屋も、坂道も、全部。
一気に、赤が、塗り潰していく。
そして――ばん、と。
目の前で、扉が、閉まった。
「――そこから先は、見せねぇ」
†================†
尻から、落ちた。
冷てぇ、鉄の床だった。
見回す。
四方に、太ぇ格子が、立っている。
天井は、ねぇ。空は、真っ黒だ。
檻だ。
でかい、鉄の檻の、真ん中に、オレはいた。
そして、正面に。
見上げるような大男が、立っていた。
赤茶けた髪。剥き出しの腕。
「……誰が」
低い声だった。
拳が、ぎしり、と鳴る。
「誰が、見ろっつった」
「……悪ぃ」
オレは、立ち上がった。
膝が、笑ってやがる。さっきの、あの冷てぇ手の感触が、まだ抜けねぇ。
「勝手に上がり込んだのは、謝る」
「謝れなんて、言ってねぇ」
「じゃあ、なんだ」
「――出てけ」
風が、なかった。
音も、なかった。
オレは、この檻の中で、ようやく、腑に落ちた。
こいつが、なんで、誰も頼らねぇのか。
なんで、一人で突っ込んで、死ぬのか。
こいつは、勇気で走ってんじゃねぇ。
立ち止まったら、また、こぼす。
それが、怖ぇんだ。
「……なあ」
オレは、口を開いた。
「一個だけ、聞かせろ」
「聞かねぇっつってんだろ」
「お前の名前だ」
拳が、止まった。
「さっきの中じゃ、テメェは、ジフンって呼ばれてた」
「…………」
「スヨンってのは、誰の名前だ」
答えは、返ってこなかった。
だが、返事より、はっきりしたもんが、返ってきた。
でかい肩が、一度、跳ねたんだ。
――そういうことか。
オレは、笑った。
我ながら、ひでぇ笑い方だったと思う。
「テメェ。重ぇもん、しょってんじゃねぇか」
「――黙れ」
スヨンの、拳が、上がった。
「ぶちのめして、叩き出してやる。来いよ、梶っ子」
オレは、袖を、まくった。
十歳の、細っこい腕だ。
こんな腕で、何ができる。
――知るかよ。
「言っとくがな」
オレは、拳を、握った。
「オレはガキの頃から、こういうのだけは、得意なんだ」
今回の記録は、ここまでだ。
殴り合いの前に、一つ、白状しておく。
オレはこの時、こいつを止める理屈を、探しちゃいなかった。
ただ、腹が、立ってた。




