4日目『逃げろ』
四日目の記録。
――ここから先は、正直、あまり書きたくねぇ。
「梶さん……こういう場合は、どうしたら」
崖の上のデカブツから目を離さずに、カイトが、かすれた声を出した。
「あん?」
オレは、あごを撫でた。
「こういう場合はなぁ。……知りてぇか?」
「あるんですか、秘策が」
「いいか。よく聞け」
「はい!」
「逃げんだよ!!」
「ええっ!?」
カイトが、素っ頓狂な声を上げた。
「秘策じゃないです、それ!」
「立派な戦術だ! 走れェ!!」
オレたちは、崖の下の斜面を、転がるように駆け下りた。
硫黄の匂いが、喉の奥に張りつく。
足の裏で、砂利が滑る。
背中で、翼が、一度だけ、鳴った。
風が、上から叩きつけてくる。
「……速ぇ」
木の間を抜けても、影が、頭の上から離れねぇ。
真っ黒な鱗のバケモンは、追いかけてるってより、こっちが疲れんのを、待っていた。
「ちぃっ……逃がしちゃくれねぇか」
「か、梶さん」
カイトの息が、上がっている。
「戦うんですか」
「いや」
即答した。
「今は、勝てねぇ」
「――!」
「テメェの雷は、さっきので出し切ってんだろ。ここでもう一回喉ぶち抜けって言われて、できんのか」
「…………」
木の幹を、盾にする。
一拍だけ、息を整えて――オレは、腹をくくった。
「……あれを、するしかねぇか」
「え?」
オレは、カイトに手を伸ばした。
「カイト! オレの手を掴め!」
「え? あ、はい!」
前の担当の時に、魔族をぶん殴った、あの手だ。
手さえ掴めりゃ、オレは、こいつの中に入れる。
腕っぷしなら、オレのほうが上だ。オレが動かしゃ、あのデカブツの一匹くらい――
(オレなら、なんとかなる)
カイトが、わけも分からねぇまま、手を伸ばしてくる。
その手が、オレの手に――
「――!?」
重ならなかった。
すり抜けた。
十歳のガキの手が、カイトの手を、水みてぇに、通り抜けやがった。
「あの……掴め、ないです」
カイトが、戸惑った顔で、自分の手のひらを見る。
何度、握ろうとしても、指が、空を切る。
「……は?」
背筋が、ざわりとした。
前は、掴めた。あいつは、自分から手を伸ばしてきて、オレは、確かに、その体に入った。
なのに、今は――
「作戦変更だ!」
考えてる暇はねぇ。真上で、翼が畳まれる音がした。
「全力で走れェ!!」
「またですか!!」
木立の中を、二人で、また転げるように駆ける。
走りながら、オレは、自分のステータスを引っ張り出した。
(……ねぇ)
前の現場では、ここに、確かに並んでいた。
体を貸し借りする、あのスキルの名前が。
それが、消えている。
灰色に塗り潰されたみてぇに、項目ごと、無い。
(何か、発動条件があんのか?)
前は、いつ使えるようになった。
……思い出せねぇ。気づいたら、使えてた。
そういう、後出しみてぇな仕様だ。
肝心な時に無ぇってんなら、あってねぇようなもんだろうが。
(クソ……いまいましい仕様だ! あのサイコパス女神ァ!)
腹の中で吠えても、灰色の項目は、うんともすんとも言わねぇ。
「梶さん! 追いつかれます!」
「わかってる!」
沢の音が、耳に届いた。
さっき、あのデカブツが焼いた岩場だ。
赤黒く炙られた岩が、まだ、じりじりと熱を吐いている。
手が使えねぇなら、頭だ。
「カイト! 水は撃てるか!」
「え……生活魔法くらいなら!」
「上等だ!」
オレは、岩肌を指差した。
「沢の水を、そこの焼けた岩に、ぶちまけろ! 全部だ!」
「は、はい――」
しゃあ、と、白いもんが立ち上がった。
熱された岩が、水を食って、一気に噴き上げる。
「そのまま風だ! 混ぜて、広げろ!!」
「【風】――!」
渦が、白を巻き込んだ。
湯気が、谷に、ぶわりと広がっていく。
視界が、乳みてぇに濁った。
「こんな方法が……!」
「口を閉じろ、走れ!」
上で、耳障りな咆哮が上がった。
翼が、風を叩く。だが、そいつが起こす風が、また霧を掻き回した。
自分で、自分の目を潰してやがる。
(学習しろよ、上位種族サマよぉ)
オレたちは、白い中を、沢づたいに、下へ下へと転げ落ちていった。
どれだけ走ったか、分からねぇ。
気づけば、翼の音は消えていた。
倒れた木の根方に、カイトが、へたり込む。
「……はっ、はっ……」
煤と泥で、顔が、真っ黒だ。
前髪の先から、湯気の雫が、ぽたぽた落ちている。
「……生きてます」
「そりゃそうだろ」
オレは、腰に手を当てた。
「オレの指示だぞ」
顔を見合わせた。
どっちが先に吹き出したのか、分からねぇ。
「あははっ」
「はっ、はははは!」
腹の底から、笑った。
命からがら、泥まみれで、報酬も持たずに逃げてきた男が二人。
いや、一人と、一人だ。
「梶さん、逃げんだよって」
「うるせぇ、名文句だろうが」
「あんなに堂々と逃げる人、初めて見ました」
「テメェな、こら」
こういうのが、悪くねぇんだ。
死にかけて、笑える相手がいる。
掴めなかった手のことは、頭の隅に追いやった。
カイトが、ふいに、笑うのをやめた。
目が、見開かれていく。
「……ん? どうした」
「梶さん」
「あ?」
「……血が」
指が、オレの顔を差していた。
顎に、あったけぇもんが、伝っている。
拭ってみたら、手の甲が、赤くなった。
「……鼻血?」
こんなもん、いつ以来だ。
首を傾げようとして。
膝から、力が、抜けた。
「――は?」
見下ろす。
服の腹んとこが、内側から、じわりと黒く広がっていた。
ぽたり、と、地面に落ちる。
ぽたり、ぽたり。
やがて、それは、糸みてぇに、繋がった。
「梶さん!!」
「待て、待て待て、おかしいだろ」
慌てて、服をたくし上げた。
――何も、ねぇ。
切られてもいねぇ。抉られてもいねぇ。
十歳のガキの、白い腹があるだけだ。
なのに、そこから、血が、あふれ出している。
まるで、どっか遠くで開いた穴の分だけ、オレの体が、律儀に払ってるみてぇに。
(……なんだ、これ)
腹の内側が、ねじ切られるみてぇに、熱い。
冷や汗が、一気に噴いた。
「テメェ、怪我は」
オレは、カイトを見た。
煤だらけだが、泥だらけだが。
無傷だ。血の一滴も、流しちゃいねぇ。
「鑑定!!」
『名前:カイト/職業:魔法使い/状態:異常なし』
異常、なし。
嘘じゃねぇ。こいつは、ぴんぴんしてやがる。
(じゃあ、なんでオレが死にかけてんだ)
「梶さん、しっかりしてください、梶さん!」
カイトが、手を伸ばしてくる。
その手は、また、オレをすり抜けた。
視界が、白く、灼けはじめる。
「……なんでだ」
膝が、地面についた。
砂利の冷たさが、頬に来る。
「誰も、死んじゃ、いねぇじゃねぇか……!」
答えは、なかった。
「梶さん!! 梶さぁん――!!」
叫ぶ声が、水の底みてぇに遠のいて。
オレの意識は、闇に落ちた。
尻から落ちた。
石畳が、硬てぇ。
生ゴミと、安酒の匂い。
「……いってぇな、クソが」
言ってから、動きが止まった。
腹を触る。
血は、ねぇ。痛みも、ねぇ。
服も、真新しい。
ついでに、この体も、寸分たがわず、ちんちくりんのままだ。
顔を上げれば、見覚えのある路地の壁。
その先で、荷車が、ガタゴトと石畳を鳴らしていく。
焼きたてのパンと、鉄くささ。
――一日目だ。
戻ってやがる。
(……リセット、かよ)
膝が、笑った。
やっぱり、今回もあるのか、このクソ仕様が。
前の担当の時と、同じだ。担当の勇者が死ねば、時間が巻き戻る。
覚えてんのは、オレだけ。
だが。
だが、待て。
(……誰が、死んだ?)
オレは、壁に手をついた。
カイトは、目の前にいた。
無傷だった。鑑定も、正直に「異常なし」を出しやがった。
死んだのは、オレだ。オレだけだ。
そんな話は、聞いてねぇ。
死ぬのは勇者で、それに巻き込まれるのがオレだ。順番が、逆だろうが。
(……いや)
冷えた石壁の感触が、じわりと指に伝わってくる。
順番は、逆じゃねぇのかもしれねぇ。
どっかで、誰かが、腹をやられた。
それが、そのまま、オレに来た。
オレの知らねぇ、どっかで。
それに、あの手だ。
いざって時に、カイトの体に、入れなかった。
前は、できたことが。
「……おい」
オレは、まだ何も知らねぇ空を見上げた。
「担当ってのは、あいつ一人じゃねぇのか。クソ女神」
答えは、返ってこない。
あの女は、肝心なことは、何も言わねぇ。
――いや。
違う。
言おうとしたのを。
オレが、遮ったんだ。
「……ちっ」
オレは、舌打ちをして、路地を歩き出した。
これが、四日目の記録だ。
書いてる今、オレは、三日目より前の街にいる。
一つだけ、はっきりしたことがある。
オレが死んだ理由は、この街には、ない。




