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辞令:人災育成課配属を命ずる 〜ノルマ8192万人。転生した元最強勇者の転職先は、人災級のポンコツ勇者を 育てるブラック職場でした〜   作者: Ruru
ケース1 井上 綾(いのうえ あや)

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12日目(表)『逃げ』


……何が、起こった?


気がつけば、私は地に倒れ伏していた。


頬に触れるのは、瓦礫の散らばった冷たい床。

口の中に広がるのは、自身の紫色の血の、苦々しい鉄の味。

視界が、ぐらぐらと揺れている。


目の前に、勇者が立っていた。

小さな影が、地に這う私を、静かに見下ろしている。


(……馬鹿な。何が、どうなっている)


私は、何が起きたのか、まるで理解できなかった。


立ち上がろうと、腕に力を込める。

だが、その腕は萎えた小枝のように震えるだけで、私の体を支えない。


「ぐ……ぁ」


喉の奥から、どす黒い血の塊がせり上がり、床にぶちまけられた。

内臓が、いくつも砕けている。

全身を貫く激痛が、これが悪夢でも幻でもないことを、私に突きつけていた。


なぜだ。

なぜ、この私が――



†================†



ほんの、数瞬前まで。

戦況は、私の圧倒的な優位にあった。


私の指先から放たれる光の奔流は、小娘の構える盾を容赦なく打ち据えていた。

娘にできることは、ただ盾の陰に縮こまり、その身を守ることだけ。

防戦一方。反撃の一つも、ありはしない。


(……なんだ)


私の胸に、見覚えのある感情が、再びどんよりと広がっていった。

失望だ。


あれほど期待したというのに。

あれほど、私の背筋を凍らせた「何か」の正体を、心待ちにしていたというのに。


結局、これか。

所詮は、盾の裏で震えるだけの下級種族。

歓喜に打ち震えた私自身が、ひどく滑稽で、恥ずかしい。


(……興が削げた。終わらせよう)


私は、止めの一撃を放つべく、光をひときわ強く凝縮させた。

この退屈な茶番に、幕を引くために。


――その、刹那だった。


勇者が、突如として、身の丈ほどもある大盾を、無造作に投げ捨てたのだ。


(……何?)


そして、あろうことか。

唯一の守りを失った小娘は、武器の一つも持たぬ丸腰のまま――まっすぐに、私へと駆け出してきた。


(気でも、狂ったか)


私は、嘲笑すら浮かべた。

自殺願望か。無防備に飛び込んでくるなら、消し炭にするのは造作もない。


私の指先から、無数の光線が娘へと殺到する。


だが。


当たらない。


(……?)


一条たりとも、当たらない。

否――違う。


避けている。


紙一重で。光線が肌を焼く寸前のところで、その小さな体が、ぐにゃりとあり得ない軌道を描いて、悉くを掻い潜っていく。


「……は?」


私の喉から、間の抜けた声が漏れた。


あの速度を。あの見切りを。

人間の身で、できるはずがない。

歴戦の魔族である私ですら、目で追うのがやっとの動き。


それを、たった今まで盾の裏で震えていた小娘が――?


理解が、追いつかない。

迫り来る小さな影に、私は初めて、光線を放つ手を止めた。



†================†



そして、私の視界が、一瞬、暗転した。


ゴッ、という鈍い衝撃。


気がつけば。

私は、地面に這いつくばっていた。


「……あ」


見上げる。

そこには、鬼の形相をした勇者が、冷たく私を見下ろしていた。


その澄んでいたはずの瞳には、底なしの殺意が、ドス黒く渦巻いている。


(これは……勇者では、ない)


私の本能が、けたたましく絶叫した。


先ほどまでの、震える小娘ではない。

似て非なる、まったくの別物。

この小さな器に、得体の知れない『何か』が、はっきりと宿っている。


視線が、娘の右手に吸い寄せられた。


私を殴り飛ばしたであろうその拳は――無残に砕けていた。

拳の皮は破れ、指はあらぬ方向にひしゃげ、おびただしい血が、ぼたぼたと床に滴り落ちている。


自らの肉体を、壊しながら。

その細腕で、この私を、殴り倒したというのか。


「ちっ……やっぱり、仕留めきれねぇか」


小娘の口から、低く、しわがれた、男の舌打ちが漏れた。


その声は、もはや勇者のものではなかった。


そして、その『何か』は。

血まみれの右手を一瞥し、まだ無事な左手に、ゆっくりと視線を移した。


「あと一回」


ぼそりと、呟いた。


たった一言。

だが、その意味するところが、私の脳を凍りつかせた。


あと一回。

あの左の拳が、もう一度振るわれれば。

それで、私は、終わる。


冷静に。淡々と。

こいつは、私を殺すための算段を、ただ口にしただけなのだ。


「……ひっ」


私の喉から、生まれて初めての音が漏れた。


恐怖。


何百年も、他者にしか与えてこなかったその感情を、私は今、骨の髄まで味わっていた。


逃げ、なければ。

ここにいては、殺される。捕食される。


私は、残された最後の力を、全身に振り絞った。

萎えた脚に活を入れ、瓦礫を蹴り、立ち上がろうと――


ガクン。


体が、動かない。


「……っ!?」


脚が、地面に縫い付けられたかのように、びくともしない。

慌てて視線を落とす。


私の足元に伸びた、長い影。

その影を――小娘の小さな靴が、ぴたりと踏みつけていた。


逃げられない。


その絶望が、氷の杭となって、私の心臓を貫いた瞬間。


『何か』が宿った小娘は、血濡れの口の端を、にぃ、と吊り上げた。


捕食者の、笑み。


「逃がさねぇよ」


その一言が。

私の世界の、全てだった。


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