12日目(表)『逃げ』
……何が、起こった?
気がつけば、私は地に倒れ伏していた。
頬に触れるのは、瓦礫の散らばった冷たい床。
口の中に広がるのは、自身の紫色の血の、苦々しい鉄の味。
視界が、ぐらぐらと揺れている。
目の前に、勇者が立っていた。
小さな影が、地に這う私を、静かに見下ろしている。
(……馬鹿な。何が、どうなっている)
私は、何が起きたのか、まるで理解できなかった。
立ち上がろうと、腕に力を込める。
だが、その腕は萎えた小枝のように震えるだけで、私の体を支えない。
「ぐ……ぁ」
喉の奥から、どす黒い血の塊がせり上がり、床にぶちまけられた。
内臓が、いくつも砕けている。
全身を貫く激痛が、これが悪夢でも幻でもないことを、私に突きつけていた。
なぜだ。
なぜ、この私が――
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ほんの、数瞬前まで。
戦況は、私の圧倒的な優位にあった。
私の指先から放たれる光の奔流は、小娘の構える盾を容赦なく打ち据えていた。
娘にできることは、ただ盾の陰に縮こまり、その身を守ることだけ。
防戦一方。反撃の一つも、ありはしない。
(……なんだ)
私の胸に、見覚えのある感情が、再びどんよりと広がっていった。
失望だ。
あれほど期待したというのに。
あれほど、私の背筋を凍らせた「何か」の正体を、心待ちにしていたというのに。
結局、これか。
所詮は、盾の裏で震えるだけの下級種族。
歓喜に打ち震えた私自身が、ひどく滑稽で、恥ずかしい。
(……興が削げた。終わらせよう)
私は、止めの一撃を放つべく、光をひときわ強く凝縮させた。
この退屈な茶番に、幕を引くために。
――その、刹那だった。
勇者が、突如として、身の丈ほどもある大盾を、無造作に投げ捨てたのだ。
(……何?)
そして、あろうことか。
唯一の守りを失った小娘は、武器の一つも持たぬ丸腰のまま――まっすぐに、私へと駆け出してきた。
(気でも、狂ったか)
私は、嘲笑すら浮かべた。
自殺願望か。無防備に飛び込んでくるなら、消し炭にするのは造作もない。
私の指先から、無数の光線が娘へと殺到する。
だが。
当たらない。
(……?)
一条たりとも、当たらない。
否――違う。
避けている。
紙一重で。光線が肌を焼く寸前のところで、その小さな体が、ぐにゃりとあり得ない軌道を描いて、悉くを掻い潜っていく。
「……は?」
私の喉から、間の抜けた声が漏れた。
あの速度を。あの見切りを。
人間の身で、できるはずがない。
歴戦の魔族である私ですら、目で追うのがやっとの動き。
それを、たった今まで盾の裏で震えていた小娘が――?
理解が、追いつかない。
迫り来る小さな影に、私は初めて、光線を放つ手を止めた。
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そして、私の視界が、一瞬、暗転した。
ゴッ、という鈍い衝撃。
気がつけば。
私は、地面に這いつくばっていた。
「……あ」
見上げる。
そこには、鬼の形相をした勇者が、冷たく私を見下ろしていた。
その澄んでいたはずの瞳には、底なしの殺意が、ドス黒く渦巻いている。
(これは……勇者では、ない)
私の本能が、けたたましく絶叫した。
先ほどまでの、震える小娘ではない。
似て非なる、まったくの別物。
この小さな器に、得体の知れない『何か』が、はっきりと宿っている。
視線が、娘の右手に吸い寄せられた。
私を殴り飛ばしたであろうその拳は――無残に砕けていた。
拳の皮は破れ、指はあらぬ方向にひしゃげ、おびただしい血が、ぼたぼたと床に滴り落ちている。
自らの肉体を、壊しながら。
その細腕で、この私を、殴り倒したというのか。
「ちっ……やっぱり、仕留めきれねぇか」
小娘の口から、低く、しわがれた、男の舌打ちが漏れた。
その声は、もはや勇者のものではなかった。
そして、その『何か』は。
血まみれの右手を一瞥し、まだ無事な左手に、ゆっくりと視線を移した。
「あと一回」
ぼそりと、呟いた。
たった一言。
だが、その意味するところが、私の脳を凍りつかせた。
あと一回。
あの左の拳が、もう一度振るわれれば。
それで、私は、終わる。
冷静に。淡々と。
こいつは、私を殺すための算段を、ただ口にしただけなのだ。
「……ひっ」
私の喉から、生まれて初めての音が漏れた。
恐怖。
何百年も、他者にしか与えてこなかったその感情を、私は今、骨の髄まで味わっていた。
逃げ、なければ。
ここにいては、殺される。捕食される。
私は、残された最後の力を、全身に振り絞った。
萎えた脚に活を入れ、瓦礫を蹴り、立ち上がろうと――
ガクン。
体が、動かない。
「……っ!?」
脚が、地面に縫い付けられたかのように、びくともしない。
慌てて視線を落とす。
私の足元に伸びた、長い影。
その影を――小娘の小さな靴が、ぴたりと踏みつけていた。
逃げられない。
その絶望が、氷の杭となって、私の心臓を貫いた瞬間。
『何か』が宿った小娘は、血濡れの口の端を、にぃ、と吊り上げた。
捕食者の、笑み。
「逃がさねぇよ」
その一言が。
私の世界の、全てだった。




