第117話:同じ時間のはずなのに、少しだけ近すぎる距離
人との距離は、目に見えるものだけじゃない。
言葉の間。
視線の長さ。
沈黙の重さ。
ほんの少しの変化が、
気づかないうちに“関係”を変えていく。
それが良い方向なのか――
それとも、戻れない方向なのかは、
まだ、誰にも分からない。
昼休み。
教室のざわめきが少しずつ外へ流れていく。
「ラフリ、どこ行く?」
アオイがパンを片手に聞いてくる。
「屋上」
「また!?好きだねぇ〜」
「静かだからな」
「私はにぎやかな方が好き!」
そう言いながらも、アオイはナカムラの方へ戻っていく。
「ナカムラ〜一緒に食べよ〜!」
「いいよ、ちょうど話したいこともあったし」
その光景を横目に、ラフリは立ち上がる。
その瞬間――
「……ラフリ」
すぐ後ろから声。
振り向くまでもない。
「一緒に行く」
疑問形ではなかった。
断る理由も、特にない。
「……ああ」
短く答えると、ユナは自然に隣に並んだ。
屋上。
風は昨日より少しだけ強い。
フェンスの向こうに広がる空は、どこまでも青い。
「今日はパンなんだ」
ユナがラフリの手元を見る。
「ああ」
「私も似たようなもの」
軽く弁当箱を見せる。
「……座る?」
「ん」
二人は並んで座る。
距離は――
昨日より、ほんの少しだけ近い。
「……ねえ」
ユナがぽつりと声を出す。
「なんだ?」
「ラフリってさ」
一瞬だけ言葉を選ぶように視線を逸らす。
「誰とでも、ああやって普通に話せるの?」
「普通って?」
「……さっきのアオイとか、ナカムラとか」
「まあ、普通だろ」
特に意識したことはない。
ただ話しているだけだ。
「……そっか」
ユナは小さく頷く。
それ以上は何も言わない。
だが――
その沈黙が、妙に長く感じた。
「……」
風が吹く。
紙袋がかすかに音を立てる。
ラフリがパンを口に運ぶ。
その動きを――
ユナは、じっと見ていた。
「……なんだ?」
「別に」
視線を逸らす。
だが、その一瞬の間に、
“見すぎていた”という事実だけが残る。
少しして。
ユナが弁当箱を開いた。
「……食べる?」
「いや、いい」
即答。
だが――
「……そっか」
その返事が、ほんの少しだけ静かすぎた。
ラフリは、わずかに間を置いてから言う。
「……一口ならもらう」
ユナの手が止まる。
そして――
ほんの少しだけ、表情が緩む。
「うん」
小さく頷く。
箸で一つつまみ、差し出す。
距離が近い。
また、近い。
(……なんだこれ)
拒む理由はない。
だが、どこか落ち着かない。
ラフリはそれを受け取り、口に入れる。
「……どう?」
「普通にうまい」
「そっか」
それだけなのに、
ユナは少しだけ嬉しそうだった。
午後の授業。
黒板の文字が流れていく。
ラフリはノートを取る。
その横で――
ユナのペンが止まっていた。
「……どうした」
「ん」
顔を上げる。
「ちょっと、ぼーっとしてただけ」
「寝不足か?」
「……少し」
嘘ではない。
けれど、本当でもない。
そんな曖昧な答え。
放課後。
教室の空気が少し軽くなる。
「ラフリ、帰る?」
ミサキが声をかけてくる。
「ああ」
「じゃ、一緒に――」
言いかけたその瞬間。
「ラフリ」
横から、ユナの声。
ミサキが一瞬だけ視線を向ける。
「……何?」
ユナはほんの少しだけ間を置いてから言う。
「一緒に帰るって、言ったよね?」
“言ったよね”
確認のようで、確認じゃない。
ラフリは軽く眉をひそめる。
「……言ったか?」
「昨日」
「……ああ」
思い出す。
確かにそんな流れだった気もする。
「じゃあ、そうする」
ミサキが小さく息を吐く。
「……そっか」
それ以上は何も言わない。
だが――
その一瞬の沈黙を、ユナは見逃さなかった。
帰り道。
夕焼けが昨日より濃い。
「ねえ」
ユナが隣で歩きながら言う。
「なんだ?」
「今日、楽しかった?」
「……普通だな」
正直な答え。
だが――
ユナは少しだけ立ち止まる。
「……普通、か」
その言葉を繰り返す。
小さく。
ゆっくりと。
「私は――」
言いかけて、止まる。
「……いや、なんでもない」
また、飲み込む。
言葉にしない感情が、少しずつ増えていく。
別れ際。
「また明日」
「うん」
ラフリが歩き出す。
その背中を――
ユナは、じっと見ていた。
昨日よりも長く。
少しだけ強く。
その夜。
ユナは窓の外を見ていた。
暗い空。
静かな街。
そして――
胸の奥に残る、小さな違和感。
「……普通って、なに?」
ぽつりと呟く。
答えは出ない。
ただ一つ、分かっているのは――
今日の時間は、
“ただの普通”ではなかったということ。
そして、
その“特別”を作っているのが誰なのかも。
ユナは、ゆっくりと目を閉じる。
その唇から、無意識に言葉がこぼれた。
「……私だけじゃ、ダメなのかな」
小さく。
誰にも届かない声で。
距離は、確実に変わり始めている。
けれどそれは――
まだ誰にも止められないほど、静かだった。




