第116話:変わらない日常と、ほんの少しの違和感
変わらないはずの日常ほど、
人を油断させるものはない。
同じ朝。
同じ教室。
同じ顔ぶれ。
それでも――
ほんの少しだけ、何かが違っている。
その違いに気づけるかどうかで、
その先の未来は、大きく変わってしまうのかもしれない。
「……おはよう」
静かな声が、すぐ隣から聞こえた。
ラフリはゆっくりと顔を上げる。
そこにはすでに席に座っているユナの姿があった。
(……早いな)
彼女は普段、ほんの少しだけ遅れて来ることが多い。
だが今日は違った。
まるで――最初からそこにいたかのように。
「おはよう」
短く返す。
それだけのやり取りのはずなのに、
なぜか胸の奥に小さな違和感が残った。
言葉にできない、何か。
授業が始まる。
黒板に書かれる文字。
チョークの音。
ページをめくる音。
すべてが、いつも通り。
(……なのに)
妙に落ち着かない。
理由は分からない。
ただ――
「……ラフリ」
小さな声。
ラフリは横を見る。
ユナが少しだけ身体をこちらに寄せていた。
「この部分……ちょっと分からないの」
教科書を指差す。
距離が近い。
いつもより、少しだけ。
「どこだ?」
ラフリも自然と身を寄せる。
二人の肩が、かすかに触れる。
その瞬間――
(……あれ?)
なぜか、一瞬だけ心臓が強く跳ねた。
理由は分からない。
だが、確かに――
“何か”が引っかかった。
「ここ」
「……ああ、それは――」
説明を始める。
淡々と、いつも通りに。
だが視界の端で、ユナの横顔が揺れる。
近い。
近すぎる。
(……前から、こんな距離だったか?)
分からない。
思い出せない。
でも――
違う気がする。
「……なるほど」
ユナは小さく頷いた。
「ありがとう、ラフリ」
柔らかな微笑み。
その表情に、ラフリは一瞬だけ言葉を失う。
「……別に」
視線を逸らす。
なぜか、それ以上見ていられなかった。
休み時間。
「ラフリぃぃぃ!!」
騒がしい声と共に、アオイが突っ込んでくる。
「数学!!終わってる!?」
「終わってない」
「終わったあああああ!!」
「落ち着け」
後ろからナカムラが現れる。
「僕は終わってるから、よければ教えるよ」
「ナカムラ神!!マジ神!!」
アオイが半泣きでしがみつく。
教室に笑いが広がる。
いつも通りの光景。
変わらない日常。
――のはずだった。
「……ラフリ」
まただ。
その声。
ラフリが振り向くと、
ユナがすぐ後ろに立っていた。
「今日のお昼……どこで食べるの?」
「まだ決めてないけど」
「じゃあ――一緒に食べていい?」
間が、なかった。
まるで最初から決まっていたかのように。
ラフリは少しだけ目を瞬かせる。
「……ああ、いいけど」
「よかった」
ユナはほんの少しだけ、安心したように微笑んだ。
その表情が――
妙に胸に残った。
昼休み。
屋上。
フェンス越しに広がる青空。
風が、少しだけ強い。
「ここ、好きなの?」
ユナが隣で聞く。
「静かだからな」
「……そっか」
短い会話。
それでも、不思議と居心地は悪くない。
むしろ――
(……落ち着く)
その感覚に、ラフリは小さく眉をひそめた。
「ラフリ」
「ん?」
「……なんでもない」
ユナは言葉を飲み込む。
だがその視線は、確かにラフリを見ていた。
まっすぐに。
逃げ場のない距離で。
しばらくの沈黙。
風の音だけが流れる。
その中で――
ユナがぽつりと呟いた。
「……ねえ」
「なんだ?」
「もし、さ」
一瞬、言葉が止まる。
「……もし、ラフリがいなくなったら」
ラフリの動きが止まる。
「どうすると思う?」
軽い調子ではなかった。
冗談でもない。
ただの仮定の話――
のはずなのに。
妙に重い。
「……急だな」
「うん」
「考えたことないな」
それが正直な答えだった。
ユナは小さく頷く。
「……そっか」
その声は、どこか安心しているようで――
同時に、少しだけ寂しそうだった。
帰り道。
夕焼けが、街を赤く染めている。
「また明日」
「うん」
短い別れ。
それだけのはずなのに――
ユナは一瞬だけ、足を止めた。
ラフリの背中を見つめる。
その目に宿る感情は――
まだ、誰にも分からない。
その夜。
ユナはベッドの上で、静かに目を閉じていた。
けれど――
眠れなかった。
胸の奥が、ざわついている。
理由は分からない。
ただ、確かに――
何かを“失いかけた”ような感覚だけが残っている。
「……変なの」
小さく呟く。
自分でも分からない。
なのに――
どうしても消えない。
その違和感。
その感情。
その“何か”。
そして――
無意識のうちに、彼女は呟いていた。
「……いなくならないよね」
誰に向けたのかも分からない言葉。
ただ一つだけ、確かなのは――
その対象が、もう決まっているということだった。
静かな日常は、まだ続く。
けれどその裏で、
確実に何かが――
ゆっくりと、歪み始めていた。




