第115話『一日前の世界と、届いた手』
もし、もう一度だけやり直せるなら――
人はきっと、同じ選択をしない。
後悔を知った者だけが、
本当の意味で“変わる”ことができる。
守れなかった過去。
届かなかった声。
失ったあとで気づいた、たった一つの願い。
それでも、まだ間に合うのなら。
今度こそ――
その手を、離さない。
目を開けた瞬間、ラフリは理解していた。
「……戻った」
天井。
朝の光。
静かな部屋。
昨日と同じはずの景色なのに、
胸の奥には、確かに“終わり”の記憶が残っている。
雨。
衝突。
届かなかった声。
「……一日、前か」
ゆっくりと起き上がる。
頭ははっきりしていた。
迷いもない。
前とは違う。
今回は――“動く”。
学校。
教室に入った瞬間、空気の違いに気づく。
まだ、何も起きていない。
誰も知らない。
誰も傷ついていない。
「……間に合う」
その一言を、小さく呟いた。
アオイが振り返る。
「え、なにが?」
「なんでもない」
「怖いんだけど!?」
ミサキがため息をつく。
「朝から変よ、あんた」
ナカムラも苦笑する。
「寝不足か?」
ラフリは答えず、席につく。
視線は――ユナの席。
まだ、空。
胸がわずかにざわつく。
(来る……)
数秒後、教室の扉が開いた。
ユナが入ってくる。
いつも通りの姿。
いつも通りの表情。
――それだけで、息が詰まりそうになる。
生きている。
それだけで、胸が痛いほど満たされる。
「……おはよう」
ラフリの声は、わずかに掠れていた。
ユナは少し驚いた顔をする。
「……おはよう」
ほんの少しだけ、違和感のある返事。
それでもいい。
今はまだ、何も壊れていない。
授業が始まる。
だがラフリはノートを取らない。
ただ、頭の中で計算していた。
時間。
場所。
順序。
そして――
“どうすれば、確実に防げるか”。
(学校から帰るのを止める?)
無理だ。
(車に乗せない?)
理由が足りない。
(犯人を探す?)
時間がない。
なら――
結論は一つ。
「……先に行く」
昼休み。
ラフリは席を立つ。
「どこ行く?」
ナカムラが聞く。
「ちょっとな」
「また一人?」
アオイがむくれる。
「今日は付き合い悪い!」
「後でな」
軽く流して、教室を出る。
廊下を歩きながら、スマホを取り出す。
連絡先。
迷わず開く。
「ナカムラ、頼みがある」
『なんだよ急に』
「ユナの家、知ってるか」
『は? なんで?』
「いいから」
数秒の沈黙。
『……知らねえけど、アオイならワンチャン』
通話を切る。
すぐ次。
「アオイ」
『なにー?』
「ユナの家、分かるか」
『えっ、ストーカー!?』
「違う」
『……うーん、場所までは知らないけど、送迎ルートならなんとなく』
「それでいい。教えろ」
アオイは少し戸惑いながらも、説明する。
ラフリはそれを頭に叩き込んだ。
最後に――
ミサキ。
『何』
「ユナの家、特定したい」
『……は?』
「時間がない」
沈黙。
ミサキの声が少し低くなる。
『あんた、本気?』
「本気だ」
数秒後。
『……位置送る。私、前に一回だけ見たことある』
「助かる」
通話を切る。
ラフリは走り出した。
校門を抜け、街へ。
頭の中にはルートが完成している。
(間に合わせる)
それだけ。
夕方。
空は曇っていた。
まだ雨は降っていない。
ユナの家の前に立つ。
大きな門。
静かな庭。
整いすぎた空気。
インターホンを押す。
数秒後、使用人が出てきた。
「どなたでしょう」
「ラフリ・パシャです。ユナに用があります」
一瞬、警戒の目。
だがその奥から――
「……通して」
ユナの声。
室内。
静かすぎる空間。
ユナはソファに座っていた。
いつもと同じ姿。
なのに――
何かが違う。
目の奥に、疲れが溜まっている。
「……どうしてここに?」
「来たかったから」
嘘じゃない。
でも、本当の理由でもない。
ユナは少しだけ眉をひそめる。
「学校は?」
「抜けてきた」
「バカなの?」
「知ってる」
少しだけ、沈黙。
その空気の中で、ラフリは確信する。
――今だ。
この瞬間が、分岐点。
「ユナ」
名前を呼ぶ。
彼女が顔を上げる。
ラフリはまっすぐ見た。
逃げない。
「お前、無理してるだろ」
その一言で――
空気が止まった。
ユナの目が揺れる。
「……何の話」
「全部だよ」
静かに言う。
「完璧でいようとしてることも、期待に応えようとしてることも」
「……」
「でも、それ全部――しんどいだろ」
ユナの指が、わずかに震える。
それを見逃さない。
「誰にも言えないなら、言わなくていい」
一歩、近づく。
「でも、一人で抱えるな」
ユナは何も言わない。
ただ、目を逸らせないでいる。
「……なんで」
小さな声。
「なんで、あなたがそれ言うの」
「分からない」
正直に答える。
「でも、見てたら分かる」
嘘でも理屈でもない。
ただの感覚。
でも、それが一番刺さる。
ラフリは、少しだけ息を吸う。
そして――
「お前がどんなでも、俺はここにいる」
静かな声。
強くもなく、弱くもない。
ただ、真っ直ぐ。
「完璧じゃなくていい」
「誰かの期待とか、どうでもいい」
「お前が壊れそうなら――」
そこで一瞬だけ言葉が詰まる。
でも、逃げない。
「……俺が、支える」
その瞬間。
ユナの中で、何かが崩れた。
張り詰めていた糸。
抑えていた感情。
全部が、静かにほどけていく。
「……そんなこと」
否定しようとして、声が震える。
「そんなこと……言われたこと、ない」
涙はまだ出ない。
でも、確実に“揺れている”。
ラフリはそれ以上何も言わなかった。
ただ、そこにいる。
逃げない。
離れない。
長い沈黙のあと。
ユナが小さく言う。
「……少しだけ」
「ん?」
「ここにいて」
その声は、今までで一番弱かった。
でも――
一番本音だった。
ラフリは頷く。
「分かった」
外。
空が暗くなり始める。
遠くで雷の音が鳴る。
だが――
まだ、雨は降っていない。
運命はまだ動いていない。
悲劇も、まだ起きていない。
けれど確かに、
何かが変わった。
一日前の世界で、
少年は初めて“間に合った”。
そして少女は――
初めて、“誰かに救われた”。
それがどんな形に変わるのかを、
まだ誰も知らない。




