第95話『黄昏に座る者たち』
開かれた扉の先にあったのは、想像していたような異様な光景ではなかった。
壊れた机も。
不気味な笑い声も。
露骨な悪意もない。
ただ、夕焼けに染まる静かな教室。
そしてそこに、二人の生徒がいるだけだった。
けれど――
本当に恐ろしいものほど、いつだって自然な顔をしている。
古い教室の窓際。
一人は机に腰掛け、頬杖をついていた。
もう一人は窓の外を見ながら、壁にもたれている。
どちらも見慣れた制服。
見慣れた同級生。
それなのに、教室の空気そのものが違って感じられた。
まるでここだけ、別の場所のように。
「……やっと来た」
机に座っていた少年が、楽しげに笑う。
「思ったより早かったね」
ラフリの喉が鳴る。
知らない顔ではない。
同じ教室にいる、ただのクラスメイト。
だが、ただのクラスメイトではないと本能が告げていた。
ユナは静かに前へ出る。
「あなたがやっていたのね」
少年は肩をすくめた。
「やっていた、って言い方は心外だな。僕は少し流れを整えただけだよ」
「整える?」
ローズが冷たく笑う。
「教室の空気を壊しておいて、よく言うわ」
「壊した?」
少年は面白そうに首を傾げた。
「違うよ。壊れやすい場所を、少し押しただけ」
その言葉にラフリの背筋が冷える。
悪意がないわけではない。
けれど、罪悪感も感じていない。
人を傷つけることより、結果そのものを観察している。
そんな目だった。
「目的は何?」
ユナの声は静かだった。
「目的?」
少年は少し考えるふりをしてから、ラフリへ視線を向けた。
「彼だよ」
空気が止まる。
「……俺?」
「うん。君」
ラフリは言葉を失った。
少年は机から降り、ゆっくり近づいてくる。
「最初は気まぐれだった。でも見ているうちに確信した」
「何を……」
「君は面白い」
その瞬間。
窓際にいたもう一人の少年が、初めて口を開いた。
「そこまでだ」
低く、よく通る声だった。
教室の温度が変わる。
机に近づいていた少年が、少しだけ不満そうに振り返る。
「えー。これからなのに」
「遊びが長い」
「遊びじゃないって」
「同じだ」
短い会話。
だが力関係は明白だった。
ふざけた空気が、そこで止まる。
ラフリは自然とそのもう一人へ目を向ける。
彼は静かだった。
感情を見せない。
ただこちらを見ている。
その視線だけで、息が詰まりそうになる。
「……あなたは」
ラフリが絞り出すように言う。
彼は答えず、代わりにこう告げた。
「お前を見ていた」
「え?」
「昔を思い出すほどにな」
意味がわからない。
けれど、机に座っていた少年が楽しそうに笑った。
「そうそう。そこなんだよ」
彼は指先をラフリへ向ける。
「君には、彼と同じものがある」
「同じもの……?」
「弱さの中で折れないところ。何度崩れても、完全には終わらないところ」
ラフリの胸が強く鳴る。
言い当てられている気がした。
強くない。
賢くない。
特別でもない。
それでも、諦めきれずに立ち上がってしまう。
そんな自分の在り方を。
「それが知りたかった」
少年は笑う。
「君がどこまで育つのか。どこまで変われるのか」
ローズが一歩前へ出た。
「人を玩具みたいに扱って、くだらないわね」
「くだらない?」
少年は肩をすくめる。
「でも君も、人を動かすのは嫌いじゃないだろ?」
ローズの瞳が鋭くなる。
ユナは静かに二人の間へ視線を差し込んだ。
「もう十分でしょう」
その言葉に、窓際の少年が頷く。
「終わりだ」
机の少年は大げさにため息をついた。
「はーい。今回はここまで」
そしてラフリの前で足を止める。
「またね」
耳元で囁くように言い、横を通り過ぎた。
本能的に振り向く。
だが次の瞬間には、二人はもう教室の外へ歩き出していた。
夕焼けの廊下に、長い影だけを残して。
静寂が戻る。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
最初に口を開いたのはラフリだった。
「……なんだったんだ、今の」
「厄介な人たちよ」
ローズが吐き捨てる。
「でも」
ユナが静かに続けた。
「少なくとも、しばらくは静かになるわ」
「どうしてわかるんだ?」
「満足したから」
その答えは、どこか冷たかった。
帰り道。
校舎の空気はまだ完全には戻っていない。
けれど、昨日までの重さは少し薄れていた。
生徒たちの声も、少しずつ自然になっている。
すべてが解決したわけじゃない。
何も終わっていない。
それでも確かに、嵐は一度遠のいた。
ラフリは夕空を見上げる。
あの二人は何者なのか。
なぜ自分を見るのか。
答えはまだ遠い。
だが一つだけ、はっきりしたことがある。
自分はもう、何も知らないままではいられない。
静けさは戻る。
けれど、それは終わりではない。
盤面の外には、まだ知らない世界がある。
そしてラフリは、そこへ足を踏み入れ始めていた。




