第94話『夕焼けの教室へ
歪みが広がるほど、見えるものもある。
完璧に隠された糸でも、何度も揺れれば痕跡は残る。
小さなズレ。
不自然な一致。
説明できない視線。
誰にも見えないはずの盤面に、ようやく小さな綻びが生まれ始めていた。
そしてそれに最初に気づいたのは、やはり彼女たちだった。
放課後。
最後の授業が終わっても、教室の空気は完全には戻っていなかった。
机を片づける音。
椅子を引く音。
帰り支度をする生徒たちの声。
いつもと同じようで、少しだけ違う。
誰もが無意識に周囲を気にしている。
自分の持ち物はあるか。
また何か起きないか。
次は誰が巻き込まれるのか。
そんな見えない緊張が、まだ残っていた。
「じゃ、先帰るわ」
ナカムラが鞄を肩にかける。
「おう。また明日」
ラフリが手を上げる。
アオイはユナの腕に抱きついたまま、名残惜しそうに頬を膨らませた。
「ユナも一緒に帰ろー?」
「今日は少し用事があるの」
「えー……」
「また明日、たくさん話しましょう」
その一言で、アオイの機嫌はすぐ戻る。
「うん!」
単純だな、とラフリは少し笑った。
けれどその隣で、ローズは何も言わなかった。
ただ静かに、ユナを見ている。
ユナもまた、視線だけで返した。
短い沈黙。
それだけで互いに何かを理解したようだった。
(……やっぱり)
ラフリの胸がざわつく。
言葉にはならない。
証拠もない。
けれど、わかる。
ユナとローズは何かを掴んでいる。
最近の違和感。
教室の歪み。
見えない誰かの存在。
その“誰か”に、二人はもう近づいている。
「ラフリ?」
ぼんやりしていたラフリに、アオイが首を傾げる。
「あ、いや……なんでもない」
「変なのー」
笑ってごまかしたが、心のざわめきは消えない。
そしてその時。
ユナが鞄を持ち、静かに歩き出した。
ローズも無言で続く。
向かう先は――校門ではない。
教室棟の奥。
使われていないはずの、古い教室が並ぶ方角だった。
ラフリの背筋が震える。
(やっぱり、そうだ)
誰かがいる。
あそこに。
理屈じゃない。
ただ強く、そう思った。
「アオイ、先に帰ってて」
「え?」
「ちょっと気になることがある」
「一人で?」
「すぐ戻る」
返事を待たず、ラフリは走り出していた。
夕焼けに染まる廊下。
長く伸びる影。
静まり返った校舎。
遠くで靴音だけが響く。
曲がり角の先に、ユナとローズの背中が見えた。
二人は振り返らない。
まるでラフリが来ることを知っていたかのように。
「……やっぱり来たのね」
先に口を開いたのはローズだった。
「え?」
「顔に書いてあるわ。気になって仕方ないって」
「そ、そんなわかりやすい?」
「ええ。驚くほど」
少しだけ悔しい。
だが今はそんなことを気にしている場合ではない。
「二人とも……知ってるんだろ?」
ユナは足を止めず、前だけを見たまま答える。
「まだ、確信ではないわ」
「でも、会えばわかる」
その言葉に、ラフリの喉が鳴る。
会えばわかる。
つまり、この先にいるのだ。
ここ数日、教室を静かに乱していた何者かが。
三人は古い教室の前で立ち止まった。
夕日が扉を赤く染めている。
中から物音はしない。
人の気配も、感じられない。
けれど。
そこに“いる”。
ラフリの instinct が、強く告げていた。
ローズが静かに扉へ手をかける。
ユナの瞳が細くなる。
ラフリは息を呑んだ。
ゆっくりと、扉が開く。
そこにいたのは――
沈む夕日。
開かれる扉。
待っていた者たち。
見えなかった盤面は、ついにその姿を現そうとしていた。




