第113話『静かな前兆と、選べない心』
大きな崩壊の前には、
いつも不自然な静けさがある。
何も起きていないように見える日。
変わらない会話。
変わらない景色。
けれどその裏で、
確かに何かは進んでいる。
人の心も、運命も。
朝。
教室には、久しぶりに少しだけ明るさが戻っていた。
アオイが机に菓子パンを並べている。
「今日は当たり日! チョコ! クリーム! 焼きそば!」
「朝から胃が終わってるわね」
ミサキが呆れる。
「食べる?」
「いらない」
「素直じゃないなあ」
「うるさい!」
そのやり取りに、ナカムラが笑った。
「いつも通りで安心するわ」
「お前はまず自分の荷物減らせ」
ラフリが言うと、ナカムラは両手いっぱいの教材を見下ろす。
「……また頼まれた」
「断れ」
「それができたら苦労しねえ」
小さな笑いが起こる。
昨日までの重苦しさは、少しだけ薄れていた。
ユナも教室へ入ってくる。
「おはよう」
自然な笑顔。
けれどラフリは、その笑顔を見るたび胸がざわつく。
守りたい。
でも、何から守ればいいのか分からない。
「……おはよう」
返事が少し遅れた。
ユナは首を傾げる。
「まだ調子悪いの?」
「いや」
「嘘ね」
「なんで皆すぐ見抜くんだよ」
ユナは小さく笑った。
「分かりやすいもの」
その笑顔に救われるのに、同時に苦しくなる。
授業中。
ラフリは窓の外を見ていた。
青空。
静かな風。
平和な昼前。
なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
カチ、カチ。
時計の音がやけに大きく聞こえる。
一瞬だけ。
針が揺れた気がした。
進んで、戻って、また進む。
「……っ」
前にも見た。
どこで?
頭痛が走る。
「ラフリ」
教師の声で我に返る。
「聞いているのか?」
「……すみません」
教室に小さな笑いが起こる。
だがユナだけは心配そうに見ていた。
昼休み。
ラフリは珍しく一人で廊下へ出た。
考えを整理したかった。
そこへミサキが追ってくる。
「ちょっと」
「なんだ」
「なんだじゃない。最近変すぎ」
「お前までか」
「皆思ってるわよ」
ミサキは腕を組む。
「……ユナのことでしょ」
図星だった。
ラフリは黙る。
「好きなの?」
「は?」
「だから、好きなのかって聞いてんの」
あまりに直球で、言葉に詰まる。
好き。
その言葉を当てはめれば簡単だ。
でも、それだけじゃない。
もっと重い。
もっと痛い。
もっと――失いたくない。
「……分からん」
ミサキはため息をついた。
「最低の答え」
「うるせえ」
「でも」
彼女は少しだけ視線を逸らす。
「分からないなら、ちゃんと向き合いなさいよ」
「……」
「失ってから気づくとか、一番ダサいんだから」
その言葉が胸に刺さった。
放課後。
ユナは教師に呼ばれ、職員室へ向かった。
ラフリは教室でぼんやり待っていた。
アオイは部活へ。
ナカムラは雑用へ。
ミサキは友人に呼ばれて先に帰った。
教室にはラフリ一人――
のはずだった。
「退屈そうだな」
ゼータがいた。
いつの間にか後ろの席に座っている。
「……お前」
「そんな警戒するな。今日は遊びに来ただけだ」
「帰れ」
「つれないな」
ゼータは机に肘をつき、笑う。
「少年。最近、夢を見るだろう?」
ラフリの目が細くなる。
「なんの話だ」
「炎。雨。悲鳴。届かない手」
心臓が強く脈打つ。
「……誰だ、お前」
「ただの観客さ」
ゼータは立ち上がる。
「だが忠告してやる。
次に同じ場面が来た時、お前は選ばされる」
「何を」
「誰を信じるか。
誰を守るか。
そして――誰を切り捨てるか」
そう言い残し、教室を出ていった。
追いかける頃には、もういなかった。
夕方。
職員室から戻ったユナは、教室の前で立ち止まる。
中にはラフリがいた。
一人で、考え込んでいる。
その横顔は不安そうで、少しだけ幼く見えた。
「……待ってたの?」
声をかけると、ラフリは顔を上げる。
「別に」
「嘘」
「……少しだけ」
ユナは笑う。
その笑顔を見た瞬間。
ラフリの胸に、また強い衝動が走る。
今この瞬間を、失いたくない。
理由はまだ言葉にならない。
けれど確かに、心はもう選び始めていた。
校舎の外。
物陰からローズが二人を見ていた。
その隣でヤジドが低く言う。
「やめとけ、ローズ」
「もう遅いわ」
「お前も壊れるぞ」
ローズは微笑む。
悲しいほど綺麗な笑みだった。
「……とっくに壊れてる」
選べない心も、
やがて選ばされる時が来る。
静かな日常。
穏やかな放課後。
何も起きていないような今日。
そのすぐ隣まで、
次の悲劇は歩いてきていた。




