第93話『静かに広がる歪み』
小さな違和感は、最初こそ誰にも相手にされない。
気のせい。
偶然。
考えすぎ。
そうやって片づけられる。
けれど同じことが何度も続けば、人は少しずつ疲れていく。
そして疲れた心は、疑いを生みやすくなる。
見えない歪みは、静かに広がっていた。
翌朝。
教室の空気は昨日よりもわずかに重かった。
誰かが明確に怒っているわけではない。
大きな問題が起きたわけでもない。
それでも、どこかぎこちない。
笑い声はある。
会話もある。
だがその裏側に、小さな引っかかりが残っている。
「……おはよ」
「お、おはよう」
挨拶一つでさえ、少しだけ間が生まれる。
ラフリはその変化を感じ取っていた。
(まただ……)
説明はできない。
けれど昨日までとは何かが違う。
席へ着こうとした時、足が止まった。
机の上に置いていたはずのノートがない。
「え?」
鞄の中を見る。
机の中を見る。
ない。
昨日、確かにここへ入れたはずだった。
「どうした?」
ナカムラが声をかける。
「ノートが……ない」
「またかよ」
その言葉に、ラフリは顔を上げた。
「また?」
「ああ。朝から二人くらい物なくして騒いでたぞ」
嫌な予感がした。
教室の前では女子生徒が友人に訴えている。
「絶対ここに入れたのに!」
「落としたんじゃない?」
「そんなわけないって!」
その少し後ろでは別の男子生徒が苛立っていた。
「誰か勝手に俺のペン使っただろ」
「知らねえって」
小さな問題。
一つ一つは些細なこと。
けれど、それが同時に起きている。
ユナは静かに席から立ち上がり、教室を見回した。
誰かが笑っている。
誰かが困っている。
誰かが面倒そうにしている。
そして誰かが、“ただ眺めている”。
(露骨になってきたわね)
昨日までは違和感だった。
今日はもう、意図が見え始めている。
“空気を悪くすること”そのものが目的。
アオイが不安そうにユナの袖を掴んだ。
「なんか……嫌な感じする」
「ええ」
「喧嘩とか、ならないよね?」
ユナは答えなかった。
代わりに、そっとアオイの手を握る。
その沈黙だけで、十分だった。
昼休み。
本来なら賑やかな時間。
だが今日は、いつもの笑顔が少ない。
どこか皆、周囲を気にしている。
自分の物はあるか。
誰かに何か言われていないか。
次は自分ではないか。
見えない警戒心が教室を包んでいた。
ローズは窓際で腕を組み、静かに考えていた。
(ここまでやるの)
これは感情的な遊びではない。
誰かを傷つけたいわけでも、目立ちたいわけでもない。
ただ環境を壊していく。
人間関係を摩耗させるように。
(趣味が悪い……でも)
ローズの瞳が細くなる。
(嫌いじゃないわ、その手口)
だが自分の盤面で好き勝手されるのは別だった。
その時、教室の中央で椅子が大きく鳴った。
ガタンッ――
全員の視線が集まる。
一人の男子生徒が立ち上がっていた。
「ふざけんなよ」
その声は震えていた。
机の中から、破れたプリントが出てきていた。
「誰だよ、こんなことしたの!」
周囲がざわめく。
「知らないって」
「落ち着けよ」
「落ち着けるかよ!」
怒鳴り声。
空気が一気に張り詰める。
ラフリの心臓が強く鳴った。
(まずい)
理由はわからない。
でも、このままでは駄目だとわかる。
誰かが傷つく。
誰かが壊れる。
それだけは嫌だった。
ラフリは立ち上がる。
足が震える。
何を言えばいいのかもわからない。
それでも。
「……待って」
声は小さかった。
誰もがそちらを見る。
「まだ、誰がやったか決まってない」
「でも俺の机から出てきたんだぞ!」
「それでも……決めつけるのは違う」
言葉は拙い。
頼りない。
強くもない。
けれど、その場を止めるには十分だった。
怒っていた生徒も、すぐには言い返せない。
教室に沈黙が落ちる。
ユナはその姿を見つめていた。
ローズも、アオイも、ナカムラも。
以前のラフリなら、何もできなかった。
怖がって終わっていた。
けれど今は違う。
完璧ではない。
格好よくもない。
それでも、前へ出た。
その瞬間。
教室の後ろで、誰かが小さく笑った気がした。
ラフリが振り向く。
だがそこには、いつもの教室しかなかった。
歪みは広がる。
空気は悪くなる。
人は少しずつ削られていく。
それでも。
壊れるだけでは終わらない者も、そこにいた。




