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第92話『見えない糸の先』

静かだったはずの朝は、ラフリの一言で形を変えていた。

誰も大声を出していない。

誰も本気で怒っていない。

それなのに、教室の空気だけが妙に重い。

些細な誤解。

たったそれだけのはずなのに。

一度濁った空気は、簡単には戻らない。

そして――

それこそが、誰かの狙いだった。

「……ごめん」

最初に口を開いたのは、中心にいた男子生徒だった。

肩を落とし、困ったように笑う。

「俺、そんなつもりじゃなかったんだけど……言い方、悪かったかも」

その言葉で、空気が少しだけ緩む。

「いや……こっちも言いすぎた」

「まあ、もういいじゃん」

周囲も流れに乗り、騒ぎは収まっていく。

何事もなかったように。

だがラフリだけは、胸の奥の違和感が消えなかった。

(なんだろう……)

うまく説明できない。

誰が悪いわけでもない。

実際、解決したようにも見える。

それでも。

“何かが終わっていない”

そんな感覚だけが残っていた。

「ラフリ」

小さな声。

振り向くと、ユナが立っていた。

「少し顔色が悪いわよ」

「え? そうかな」

「考えすぎ」

いつもの穏やかな声。

けれど、その瞳は別のものを見ているようだった。

「……でも、なんか変なんだ」

ラフリは素直に漏らす。

「最近、こういう小さいこと、多い気がする」

ユナはすぐには答えなかった。

代わりに、ラフリの机へ視線を落とす。

ノートの位置。

筆箱の向き。

消しゴムの場所。

「……変だと思えるなら、それで十分よ」

「え?」

「何も感じないより、ずっといい」

そう言って、自分の席へ戻っていく。

ラフリは首を傾げた。

意味はよくわからない。

だが、不思議と少しだけ落ち着いた。

その様子を、ローズは黙って見ていた。

(ユナ……あなた、何を知っているの?)

ローズもまた気づいていた。

最近の教室には、見えない揺れが増えている。

自分は人の感情を読む。

空気の流れも操れる。

だが今起きているものは、それとは少し違った。

誰かが感情を煽っているのではない。

もっと自然に。

もっと見えない形で。

“最初からそうなるように置かれている”

そんな不快さ。

(……面白くないわね)

自分の知らない盤面。

自分の知らない手。

それはローズにとって、認めがたいものだった。

昼休み。

教室にはいつもの賑やかさが戻っていた。

アオイはユナの隣で弁当を広げている。

「見て見てユナ! 今日のおかず、ハート型!」

「本当に器用ね」

「えへへ、食べさせてあげよっか?」

「遠慮しておくわ」

「えー!」

そのやり取りにナカムラが吹き出す。

「お前らほんと仲いいな」

「いいでしょー」

アオイが胸を張る。

少し離れた場所で、ラフリもようやく笑っていた。

だが――その時。

「……あれ?」

一人の女子生徒が、自分の鞄を覗き込んでいた。

「ない……」

「どうした?」

友人が尋ねる。

「プリント……入れたはずなのに」

「朝、出してなかった?」

「出してないよ!」

小さな会話。

誰も気に留めない程度の出来事。

けれどユナとローズだけが、同時に視線を向けた。

そして教室の後方。

誰にも見られない位置で、ある生徒が何気なく視線を逸らした。

ごく自然な動き。

あまりにも自然すぎて、誰も疑わない。

――本人すら、自分の行動に意味があると思っていない。

ユナの瞳が細くなる。

(また……)

プリントを隠したのは、その生徒ではない。

ただ“そこへ置き直した”だけ。

誰かに言われたわけでもなく、命令されたわけでもない。

そうした方が自然だと、無意識に思わされただけ。

ローズも静かに笑みを消した。

(本当にいるのね)

そして二人は、まだ何も言わない。

証拠がないからではない。

今、動くべきではないと知っているからだ。

放課後。

教室の窓が夕焼けに染まる中、ラフリは一人で考えていた。

小さな違和感。

増え続けるズレ。

説明できない不安。

以前の自分なら、気のせいで終わらせていた。

けれど今は違う。

「……もし本当に誰かがいるなら」

ぽつりと呟く。

その時だった。

「いい顔になってきたじゃない」

背後から声がした。

振り返る。

そこには誰もいない。

開いた窓から風が吹き込むだけ。

「……気のせい、か?」

ラフリは苦笑した。

だが教室の外、誰にも見えない廊下の角で。

一つの影が、静かに去っていった。

糸はまだ見えない。

手もまだ届かない。

それでも確かに、盤面は動いている。

そしてその中心へ、ラフリもまた少しずつ近づき始めていた。

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