第112話『揺れ戻る記憶と、壊れかけた日常』
真実は、人を救うとは限らない。
忘れていた痛みを呼び起こし、
守っていた日常を揺らし、
心の奥に沈めた傷を再び開くこともある。
それでも――
知らなかったままでは、進めない時がある。
翌朝。
教室の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。
誰も大きな声を出さない。
笑い声も少ない。
まるで皆が、何かを壊さないよう慎重に息をしている。
アオイでさえ机に突っ伏したまま静かだった。
「……朝から元気ないとか、私も人間だったんだね」
「そこ基準なのかよ」
ナカムラが苦笑する。
けれど、その声にも力はない。
ミサキは腕を組み、苛立ったように窓の外を見ていた。
「最悪……空気重すぎ」
誰も否定できなかった。
ラフリは席についたまま、ほとんど動かなかった。
昨日から頭の奥がずっと痛い。
雨。
炎。
泣き叫ぶ自分。
砕けたガラス。
そして――
『何度でもお前を救う』
断片的な記憶が、何度も何度も押し寄せる。
「……っ」
額を押さえる。
隣のユナが小さく声をかけた。
「……大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
「見えないわ」
即答だった。
それなのに、彼女の声は優しい。
ラフリは視線を逸らす。
「……悪い」
「謝らないで」
その一言が、妙に胸に残った。
授業中。
教師の声は入ってこない。
ノートの文字も頭に残らない。
ラフリはふと隣を見る。
ユナは真面目に授業を受けている。
その横顔に、また知らない既視感が走る。
屋上。
弁当。
差し出された卵焼き。
雨の帰り道。
「……なんで」
思わず漏れた声。
ユナがこちらを見る。
「なに?」
「いや……」
言えなかった。
覚えていないのに、懐かしい。
知らないのに、大切だと分かる。
そんな矛盾を、どう説明すればいいのか分からなかった。
昼休み。
教室の隅で、アオイが小声で騒いでいた。
「ねえねえ、これ絶対ドラマの前触れだよね?」
「何がだよ」
ナカムラが呆れる。
「こういう重い空気の後って、大体なんか起きるの!」
「縁起でもないこと言うな」
「でも分かる気はする」
珍しくミサキが同意した。
彼女はラフリとユナを見ている。
二人とも近くにいるのに、会話は少ない。
距離は近いのに、心だけが揺れているようだった。
その頃、屋上。
ローズは一人、フェンスにもたれていた。
風が髪を揺らす。
背後からゼータが現れる。
「随分と派手に壊したな」
「……うるさい」
「だが、まだ足りない」
ローズは睨む。
「何が言いたいの」
ゼータは笑った。
「真実を知った程度で、あの少年は完全には戻らない」
「……」
「だから次は、思い出させるしかない」
ローズの瞳が揺れる。
「また、ユナを使えって?」
「使う? 違うな」
ゼータは空を見上げる。
「元の形に戻すだけだ」
ヤジドが扉の前で深くため息をついた。
「……やめとけ。お前ら全員ろくな顔してねえ」
誰も返事をしなかった。
放課後。
帰ろうとした時、ラフリはふらついた。
「おい!」
ナカムラが肩を支える。
「顔やばいぞ」
「寝不足だ」
「それで済む顔じゃない」
ミサキも珍しく真剣だった。
「今日は一人で帰るな」
アオイが慌てて鞄を持つ。
「そうだよ! 倒れたら私トラウマになる!」
「なんでお前基準なんだよ……」
弱く笑う。
けれど足に力が入らない。
その時、ユナが静かに前へ出た。
「……私が送るわ」
教室が止まる。
アオイの目が丸くなる。
ナカムラは口笛を吹こうとして失敗した。
ミサキは顔をしかめる。
「……そういうとこよ」
ローズはいない。
なのに、その名前だけが空気に残っていた。
校門前。
夕方の風が冷たい。
ラフリとユナは並んで歩く。
言葉は少ない。
けれど不思議と苦しくはなかった。
しばらくして、ユナが口を開く。
「……昨日のこと、信じたの?」
「分からない」
正直な答えだった。
「でも、嘘とも思えない」
「そう」
「ただ……」
ラフリは足を止める。
「お前が死ぬ光景だけは、嫌ってほど頭に残ってる」
ユナの呼吸が止まる。
彼女は何も言えなかった。
ラフリ自身も驚いていた。
それが本音だと、口にして初めて気づいた。
物陰。
誰にも気づかれない場所で、ローズがその光景を見ていた。
隣にはゼータ。
「ほらな」
ゼータが囁く。
「まだ足りない」
ローズは唇を噛む。
その瞳には涙と怒りが混ざっていた。
「……次で終わらせる」
揺れ戻る記憶は、
優しさだけを連れてはこない。
痛みも、罪も、後悔も。
すべてを連れて心を揺らす。
そして静かに、
壊れかけた日常へ次の波が近づいていた。




