第110話『ほどけた糸と、言えなかった本音』
人は限界まで耐えた時、
大きく壊れるとは限らない。
たった一言。
たった一度の優しさ。
たった一つの見逃せない寂しさ。
それだけで、張りつめた糸は静かにほどけてしまう。
朝。
教室にはいつもの空気が流れていた。
アオイの笑い声。
ナカムラのあくび。
ミサキの誰かへの鋭いツッコミ。
ローズの冷たい視線。
何も変わらない一日――のはずだった。
「おはよう」
ユナが教室へ入ってくる。
その瞬間、数人の視線が自然と向く。
今日も綺麗。
今日も完璧。
今日も隙がない。
けれど、ラフリだけはすぐに気づいた。
(……違う)
笑っている。
姿勢も綺麗。
声も変わらない。
それなのに――
目だけが、少し疲れていた。
一時間目。
教師が小テストを配る。
教室に紙の音だけが響く。
ラフリは適当に問題を眺めながら、また隣を見てしまう。
ユナの手が止まっていた。
珍しい。
彼女ほどの人間が、問題の前で数秒固まるなんて。
やがてペンは動き出す。
だが、いつもより遅い。
(……やっぱりおかしい)
胸のざわつきが消えない。
休み時間。
アオイは机に突っ伏していた。
「無理……小テスト終わった……人生終わった……」
「毎回終わってんな、お前の人生」
ラフリが呆れる。
「でも蘇るのが私!」
「しぶといな」
ナカムラが笑う。
「それ才能だろ」
教室に小さな笑いが広がる。
その中で、ミサキはユナをちらりと見た。
「……あんた、大丈夫?」
「ええ、何が?」
「顔色」
「いつも通りよ」
「……そう」
納得していない顔だった。
昼休み。
ラフリは購買から戻る途中、廊下の窓際で立ち止まった。
そこにいたのはユナだった。
一人で外を見ている。
風が髪を揺らしていた。
「……こんなとこで何してる」
ユナは少し驚いた顔をしたあと、すぐ微笑む。
「少し休憩」
「教室でいいだろ」
「一人になりたかったの」
その言葉に、ラフリは返せなかった。
隣に立つ。
しばらく沈黙。
校庭から運動部の声だけが聞こえる。
「……ラフリ」
「ん?」
「あなた、最近変わったわね」
「そうか?」
「ええ」
ユナは外を見たまま続ける。
「前より、人を見るようになった」
「……よく分からん」
「ふふ。そういうところは変わらないけれど」
その笑い方は優しい。
でも、どこか寂しかった。
「ユナ」
「なに?」
「お前、無理してるだろ」
風が止まった気がした。
ユナの指先がわずかに揺れる。
「していないわ」
「嘘つくな」
「……」
「最近ずっと変だ」
「変じゃない」
「昼飯も食ってないし、ふらつくし、顔色悪いし――」
「あなたには関係ないわ」
その一言が、思ったより鋭く落ちた。
ラフリは黙る。
ユナも、自分で言ってしまったことに気づいたように目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「いや」
気まずい沈黙。
やがてユナが小さく呟く。
「……少しだけ、疲れただけよ」
それは初めての本音だった。
完璧な答えじゃない。
綺麗な言葉でもない。
ただ、弱い声だった。
ラフリの胸が痛む。
「……そっか」
それしか言えない自分がもどかしい。
放課後。
教室ではアオイとナカムラが騒いでいた。
「聞いて! 今日の私は帰ったら何もしない!」
「宣言するほどのことか?」
「大事なの!」
ミサキはため息をつきながら鞄を持つ。
ローズは窓際から二人を見ていた。
ラフリとユナ。
言葉少なに並んで帰る姿。
その瞳に、静かな怒りが灯る。
「……また近づくのね」
ゼータが後ろから現れる。
「火種は十分育ったか?」
「黙りなさい」
「怖いな。だが君はもう止まれない」
ローズは低く笑った。
「ええ。止まる気もないわ」
ヤジドは遠くからその様子を見て、深く息を吐く。
「……最悪の流れだな」
夜。
自室。
ユナは机に向かっていた。
参考書は開かれている。
けれど、文字が頭に入らない。
ふとスマホを見る。
連絡は来ていない。
当たり前だ。
なのに、少しだけ待っていた自分に気づく。
「……馬鹿ね」
その時、通知音が鳴った。
ラフリ:明日、朝ちゃんと来い
短い。
雑。
意味も分からない。
それなのに。
ユナは声を殺して笑ってしまった。
そして目元を押さえる。
「……ほんとうに、ずるい」
言えなかった本音。
ほどけ始めた糸。
誰にも見せなかった弱さ。
それは壊れたわけではない。
ただ、
ようやく誰かの前で揺れただけだった。




