第109話『見えない傷と、気づき始めた心』
人は、壊れる瞬間だけが痛みではない。
少しずつ削られていく日々。
誰にも見せない無理。
言葉にならない疲れ。
それに気づけるかどうかで、
誰かを救える未来は変わっていく。
朝。
空は晴れていた。
昨日の雨が嘘だったように、窓の外には青が広がっている。
けれどラフリの胸の奥だけは、妙に重かった。
教室へ入ると、いつもの声が飛ぶ。
「おはよー!」
アオイだった。
今日も明るい。
いつも通り元気だ。
「朝からうるせえ」
「ひどっ!? 挨拶しただけなのに!」
「声量が災害なんだよ」
「失礼すぎる!」
そのやり取りに周囲が笑う。
普段ならラフリも少し気が楽になる。
でも今日は違った。
視線が、無意識に一人を探していた。
――ユナ。
彼女はもう席に座っていた。
いつもの姿勢。
いつもの表情。
いつもの微笑み。
完璧な朝。
なのに、ラフリは安心できなかった。
一時間目。
教師の声が遠い。
ノートを開いていても、集中できない。
ちらりと隣を見る。
ユナは真面目に板書している。
何もおかしくない。
だが、ペンを持つ手が止まる瞬間が何度もあった。
ぼんやりと宙を見る数秒。
すぐに戻る。
誰も気づかないほど小さな異変。
(……やっぱり変だ)
ラフリは眉を寄せた。
休み時間。
ナカムラは教卓の前で女子たちに囲まれていた。
「この荷物、職員室までお願い!」
「ナカムラなら頼めると思って!」
「この問題も教えてー!」
「え、あー……うん、順番な?」
笑っている。
引き受けている。
でも額には薄く汗が浮いていた。
ラフリが近づき、荷物の半分を奪う。
「は?」
「手伝う」
「珍し」
「顔うるさいぞ」
「意味わかんねえ」
ナカムラは笑った。
その笑顔は、少しだけ本物だった。
昼休み。
ミサキは弁当を食べながら、じっとラフリを見ていた。
「……何だよ」
「今日、あんた変」
「お前に言われたくねえ」
「は?」
「冗談だって」
「冗談に聞こえないのよ」
いつもの応酬。
けれどミサキはすぐ真顔に戻る。
「……ユナのこと見すぎ」
ラフリの動きが止まる。
「別に見てねえよ」
「見てる」
即答だった。
アオイが身を乗り出す。
「え!? なになに!? 三角関係!?」
「違う!」
「声でかい」
ローズは深くため息をついた。
「本当に鈍い連中ばかりね」
「何なんだよお前ら……」
教室に笑いが広がる。
だがユナだけは、その輪の少し外で静かに微笑んでいた。
その笑顔が、今日は妙に遠かった。
放課後。
帰り支度をしている時だった。
ユナが立ち上がった瞬間、ふらついた。
「っ――」
椅子が小さく音を立てる。
ラフリが反射的に腕を掴んだ。
「危なっ……!」
教室の空気が止まる。
ユナは驚いたように目を見開いた。
ラフリも、自分の行動に驚いていた。
考えるより先に体が動いた。
まるで――何度もそうしてきたみたいに。
「……大丈夫?」
声が少し震えていた。
ユナは数秒、彼を見つめる。
それから小さく笑った。
「ええ。ありがとう」
けれどその手は冷たかった。
ラフリの胸がざわつく。
雨音。
焦げた匂い。
届かなかった手。
また知らない記憶が脳裏を掠める。
「……っ」
「ラフリ?」
「いや……なんでもない」
そう言うしかなかった。
帰り道。
珍しく、ラフリは一人で歩いていた。
頭の中がまとまらない。
なぜユナが気になるのか。
なぜ放っておけないのか。
なぜ触れた瞬間、怖くなったのか。
「……意味わかんねえ」
夕焼け空に吐き出す。
その時、後ろから声がした。
「よう」
ナカムラだった。
コンビニ袋を提げている。
「一人で珍しいな」
「お前もだろ」
「俺は頼まれ物の帰り」
「……またか」
ナカムラは笑って肩をすくめる。
少し歩いたあと、不意に言った。
「お前さ」
「ん?」
「誰かのこと、本気で心配する顔できるようになったな」
ラフリは足を止めた。
「……は?」
「前はもっと、自分以外どうでもよさそうだった」
「そんな顔してたか?」
「してた」
即答だった。
「でも今は違う」
ナカムラは前を向いたまま続ける。
「悪くねえ変化だと思うぜ」
そう言って先に曲がり角を曲がっていく。
ラフリはその背中を見送った。
胸の奥で何かが静かに動く。
校舎裏。
ローズは一人、スマホを閉じた。
そこには今日の教室の写真。
ラフリがユナを支える瞬間。
彼女の瞳は冷えていた。
「……また、そうやって」
低い声。
「何度でも、彼女を選ぶのね」
その背後で、ゼータが拍手する。
「実に醜く、美しい感情だ」
「あなた、殺されたいの?」
「怖いな」
ゼータは笑う。
「だが君も、そろそろ限界だろう?」
ローズは答えない。
ただ、爪が食い込むほど拳を握っていた。
見えない傷は、
見ようとしなければ気づけない。
それでも少年は、少しずつ変わっていく。
誰かの痛みに手を伸ばすことを、
もう体が覚え始めていた。




