第108話『完璧の仮面と、ひとりの夜』
強い人ほど、弱さを見せる場所が少ない。
頼られる人ほど、助けを求める言葉を失っていく。
誰かにとっての“理想”であり続けるほど、
本当の自分は静かに置き去りにされていく。
そして夜は、
そんな孤独を隠してはくれない。
朝。
教室に入った瞬間、いつも通りの空気が広がっていた。
笑い声。
椅子の音。
窓から差し込む光。
何も変わらない日常。
――そう見えるだけで。
「おはよー!」
アオイが元気よく手を振る。
「おはよう」
ユナはいつもの笑顔で返した。
完璧な角度。
柔らかな声。
誰も不安にさせない表情。
それを見たアオイは少しだけ安心したように笑う。
だが、ローズだけは何も言わなかった。
彼女は知っている。
その笑顔が、綺麗すぎる時ほど危ういことを。
一時間目の授業中。
教師が質問を投げる。
「この公式を説明できる者はいるか?」
教室が静まる。
自然と視線が集まる先は一つ。
ユナ。
彼女は立ち上がり、淀みなく答えた。
完璧だった。
教師も満足げに頷く。
「さすがだな」
周囲から小さな感嘆の声。
座り直したユナは微笑む。
何事もなかったように。
けれど机の下で、指先だけがわずかに震えていた。
それに気づいたのは――ラフリだけだった。
(……震えてる?)
気のせいかと思った。
でも、その違和感は胸に残った。
休み時間。
ナカムラは数人の男子に囲まれていた。
「悪い、中間のまとめノート見せてくれ!」
「放課後プリント運ぶの手伝って!」
「この前の相談の続きなんだけどさ――」
「え、あ、うん……いいよ」
いつものように笑って引き受ける。
断らない。
断れない。
その様子を見たラフリが近づいた。
「お前、それ全部やる気か?」
「まあ……頼られるの嫌いじゃないし」
「顔、死んでるぞ」
「そう見える?」
ナカムラは笑った。
その笑い方が、少しだけ空虚だった。
昼休み。
アオイは購買で買ったパンを机に並べていた。
「見て見て! 新作!」
「朝から食べ物の話しかしてないわね」
ローズが呆れる。
「食は正義です!」
「意味が分からない」
いつものやり取り。
教室は明るい。
だが、ユナの席だけが静かだった。
弁当箱は開かれているのに、ほとんど手がついていない。
ミサキがそれに気づき、少し眉を寄せる。
「……あんた、また食べてないの?」
「食べてるわ」
「それで?」
「少食なの」
「嘘つくの下手ね」
思わず出た言葉だった。
ユナが少し目を丸くする。
ミサキも自分で驚いた顔になる。
「……べ、別に心配したわけじゃないし」
「ふふ、知ってるわ」
その返しに、ミサキは耳まで赤くなった。
アオイが机を叩く。
「出たー! ツンデレ!」
「うるさい!」
笑いが起こる。
その空気の中で、ラフリだけは笑えなかった。
ユナの顔色が、やはり悪い。
放課後。
今日は珍しく、ユナが先に帰った。
「用事があるの」
それだけ言って。
ラフリはその背中を目で追った。
「追いかけないの?」
ローズが窓際から言う。
「……なんで俺が」
「鈍感って罪ね」
「だから何なんだよ」
ローズは答えず、つまらなそうに席を立った。
ミサキは鞄を持ちながら、ちらりとラフリを見る。
「気になるなら行けば?」
「え?」
「……別に」
そう言って出ていく。
ラフリは一人、教室に残された。
胸の奥が落ち着かない。
理由は分からない。
ただ、何かが引っかかっていた。
その夜。
大きな屋敷の一室。
机の上には参考書、予定表、成績資料。
整いすぎた部屋。
ユナは椅子に座り、静かに書類を見つめていた。
扉の向こうから聞こえる声。
「次の模試も期待しているぞ」
「君ならもっと上を目指せる」
「失望はさせないでくれ」
家族の声。
期待の声。
信頼の声。
そして、逃げ場のない声。
「……はい」
そう返した後、部屋はまた静かになった。
ユナはゆっくりと鏡を見る。
そこに映るのは、今日も完璧な自分。
乱れのない髪。
綺麗な姿勢。
穏やかな笑顔。
――誰のための顔だろう。
ふと、スマホが震えた。
画面には短い通知。
ラフリ:ちゃんと飯食え
それだけ。
飾り気もない、ぶっきらぼうな一文。
ユナは数秒見つめたあと――
小さく、笑った。
そしてそのまま、涙が一滴だけ落ちた。
「……ずるいわ」
誰にも聞こえない声だった。
別の場所。
ゼータは暗い廊下で壁にもたれていた。
「仮面は長く被るほど、外す時に痛む」
ヤジドは腕を組んだまま言う。
「お前、楽しんでるだろ」
「少しな」
「性格が終わってる」
ゼータは肩をすくめた。
「だが、次で動く」
「……誰が?」
ゼータは窓の外を見た。
「少年か、薔薇か。
あるいは――壊れかけた姫か」
完璧であることは、
時に誰より孤独だ。
笑顔の裏に隠した涙を、
まだ誰も知らない。
けれどその夜、
たった一通の不器用な優しさだけが――
確かに、彼女へ届いていた。




