第107話『優しさの形と、届かない声』
誰かに優しくすることは、
時に自分を後回しにすることと似ている。
笑って頷くこと。
大丈夫だと答えること。
平気なふりをすること。
それを繰り返しているうちに、
本当の声は少しずつ小さくなっていく。
朝の空気は少しだけ重かった。
昨夜から降った雨のせいで、窓の外は鈍い灰色に染まっている。
教室に入ると、ナカムラが珍しく机に座ったまま黙っていた。
「……どうした?」
ラフリが声をかける。
「ん? ああ、なんでもない」
即答だった。
だが、その机の上にはコンビニのパンが一つ置かれているだけ。
「朝飯それだけか?」
「時間なくてさ」
「また誰かの頼み事か?」
ナカムラは笑う。
「まあ、そんなとこ」
それ以上聞くな、と言っている笑い方だった。
ラフリは何も言わず、自分の飲み物を机に置いた。
「飲め」
「え、いいの?」
「寝不足の顔してる」
「……お前、たまにそういうとこあるよな」
「なんだよ」
「いや、ずるいって話」
ナカムラは少しだけ救われたように笑った。
その頃。
アオイは廊下の掲示板の前で立ち止まっていた。
新しく張り出された模試順位表。
人だかりの中心には、いつもの名前がある。
ユナ。
また一位。
「すごいなぁ……」
誰かが感心した声を漏らす。
その横で、別の女子が言った。
「アオイちゃんも頑張ってるよね。……まあ、ユナ様ほどじゃないけど」
悪気のない声だった。
だからこそ痛い。
「……あはは、だよね」
笑って返し、アオイはその場を離れた。
廊下の角で立ち止まり、深く息を吐く。
「……頑張ってるんだけどなぁ」
小さな独り言。
そこへ、ユナが歩いてきた。
「アオイ?」
「うわっ、いたの!?」
「ごめんなさい、驚かせたわ」
アオイは慌てて笑顔を作る。
「なんでもないよ!」
ユナは少しだけ彼女を見つめた。
「……無理に元気なふりをしなくてもいいのよ」
その一言に、アオイの目が揺れる。
「……ほんと、そういうとこずるい」
昨日と同じ言葉だった。
でも今度は、少しだけ泣きそうな声だった。
ユナは何も言わず、そっと彼女の手を握った。
昼休み。
教室ではいつもの賑やかさが戻っていた。
ミサキは友人たちと話しながらも、時折ラフリの方を見ている。
ラフリが気づくと、すぐ視線を逸らす。
「……なんなんだ」
「鈍いわね」
ローズが冷たく言う。
「え?」
「別に」
それ以上説明する気はないらしい。
アオイは机に突っ伏しながら叫ぶ。
「誰か私にも青春をください!」
「うるせえ」
「ラフリ冷たい!」
そのやり取りに笑いが起きる。
けれど、ユナだけは少し静かだった。
弁当を開いても、箸が進まない。
「ユナ、食べないの?」
アオイが覗き込む。
「……食欲がないだけ」
「体調悪い?」
「大丈夫よ」
完璧な返事。
けれどローズは眉をひそめた。
「その“大丈夫”ほど信用できない言葉はないわ」
教室の空気が一瞬止まる。
ユナは小さく笑った。
「手厳しいのね」
「あなたが誤魔化すのが上手いだけよ」
ローズはそう言って視線を逸らした。
放課後。
ラフリは職員室へ呼ばれていた。
提出物の不備らしい。
戻ってきた時、教室にはユナ一人だけが残っていた。
窓際の席で、本を開いている。
夕陽が差し込み、その横顔を柔らかく照らしていた。
「……珍しいな。一人か?」
「みんな先に帰ったわ」
「そっか」
ラフリは自分の席に荷物を取りに向かう。
その途中、ふと足を止めた。
ユナの机の横に、未開封の昼食が置かれたままだった。
「……ユナ」
「なに?」
「お前、昼飯食ってないのか?」
一瞬だけ、沈黙。
「忘れていただけよ」
「そんなわけあるか」
思ったより強い声が出た。
ユナが少し目を見開く。
ラフリ自身も驚いていた。
なぜこんなに胸がざわつくのか分からない。
ただ――放っておけなかった。
「……ちゃんと食え」
それだけ言って、コンビニ袋を机に置く。
中にはさっき買った温かいスープとパン。
「余ったからやる」
「嘘が下手ね」
「うるさい」
ユナは袋を見つめたまま、小さく微笑んだ。
その笑顔は、今日初めて少しだけ自然だった。
「……ありがとう、ラフリ」
その瞬間。
胸の奥で何かが痛んだ。
雨。
炎。
泣きそうな声。
一瞬だけ、知らない景色が脳裏をよぎる。
「……っ」
ラフリは額を押さえる。
「ラフリ!?」
ユナが立ち上がる。
けれど次の瞬間には、もう消えていた。
「……なんでもない」
「今の、全然なんでもなくないわ」
「気のせいだ」
ユナは不安そうに彼を見る。
その視線だけが、妙に胸に刺さった。
別棟の屋上。
フェンスにもたれたゼータが笑っていた。
「揺らぎ始めたな」
「やりすぎるなよ」
隣でヤジドが煙草も吸わずに呟く。
「俺は何もしていない」
「お前がそう言う時が一番信用ならん」
ゼータは楽しげに目を細めた。
「記憶は消えても、傷は残る。
……人間は面白い」
優しさは、時に救いになる。
けれど、届かなかった声は心に積もっていく。
そして少年の中で、
忘れたはずの痛みが――静かに目を覚まし始めていた。




