第八十七話:変わらないはずの距離
人は、変化に敏感だ。
だがそれは――
大きな変化に対してだけ。
ほんの小さな違いは、
簡単に見逃される。
それが、どれほど大事なズレでも。
朝。
教室。
いつも通りの景色。
ラフリは席に座っていた。
窓の外を見る。
(……普通だな)
昨日と同じ。
何も変わらない。
そのはずだった。
「ラフリくん、おはよー!」
アオイ。
今日も元気。
「……おはよ」
軽く手を上げる。
ナカムラも来る。
「眠ぃ……」
「いつもだろ」
「うるせえ」
いつものやり取り。
笑い。
空気。
全部、いつも通り。
でも――
(……あいつ)
ラフリの視線が止まる。
ユナ。
自分の席に座っている。
ノートを開いている。
でも。
(……静かすぎないか?)
元々静かなやつだ。
でも今日は――
「おはよう、ユナ」
アオイが声をかける。
「……うん」
短い返事。
それだけ。
会話が続かない。
アオイが少しだけ首を傾げる。
「今日、なんか元気ない?」
「普通」
即答。
感情が乗っていない。
そのやり取りを、ラフリは黙って見ていた。
(……普通、か)
どこか引っかかる。
授業中。
先生の声。
チョークの音。
ラフリはノートを取っている。
ふと、横を見る。
ユナ。
視線は黒板。
手は動いている。
完璧。
無駄がない。
でも。
(……なんか違う)
言葉にできない違和感。
昼休み。
食堂。
ラフリ、ナカムラ、アオイ。
「今日さ、ユナどうしたんだ?」
ナカムラが小声で言う。
「やっぱ思うよな」
ラフリも頷く。
アオイは少し考えてから言う。
「……疲れてるのかな?」
「そんな感じでもねえだろ」
ナカムラがパンをかじる。
「昨日までは普通だったしな」
ラフリは黙る。
(昨日……)
夕方の教室。
あの会話。
「……」
言葉にできない。
でも。
確実に何かがあった。
放課後。
教室。
人は少ない。
ユナはもう帰る準備をしていた。
ラフリは少しだけ迷う。
声をかけるか。
(……いや)
でも。
足は自然と動いていた。
「ユナ」
呼び止める。
ユナが振り向く。
いつもの顔。
でも――
どこか遠い。
「何?」
短い。
「……いや」
言葉が出ない。
何を聞けばいいのか分からない。
ただ。
違和感だけがある。
「……今日さ」
ようやく口を開く。
ユナは黙って見ている。
その視線が、少しだけ重い。
ラフリは一瞬迷う。
でも。
「なんかあったのか?」
その言葉が、静かに落ちた。
ユナは答えない。
数秒。
沈黙。
教室に、夕焼けが差し込む。
そして――
「……別に」
小さく言う。
それだけ。
でも。
ラフリは確信する。
(……嘘だ)
何かがある。
確実に。
でも。
それ以上、踏み込めない。
言葉が出ない。
距離がある。
近いはずなのに。
届かない。
ユナはそのまま背を向ける。
「帰るね」
「……ああ」
それだけ。
足音が遠ざかる。
ラフリは動けなかった。
(……なんだよ、それ)
小さく拳を握る。
分からない。
何が起きているのか。
でも。
確実に――
何かが変わっている。
距離は、突然遠くなるわけじゃない。
ほんの少しずつ。
気づかないうちに、離れていく。
そして気づいた時には――
もう、元には戻れない場所にいる。
少年はまだ知らない。
この小さな違和感が、
どれほど大きな意味を持つのかを。




