第106話『変わらない笑顔、変わっていく距離』
距離が変わる時、
それは大きな別れの形ではやってこない。
会話が少し減る。
視線が少し逸れる。
隣に立つ回数が少し減る。
そんな小さな違いが、
気づけば心に静かな影を落としていく。
朝。
教室にはいつものざわめきが広がっていた。
ナカムラは机に突っ伏したまま、魂の抜けた声を出している。
「……もうだめだ。昨日バイトのあと課題してたら朝だった……」
「それ、だめなやつだろ」
ラフリが呆れながら鞄を置く。
「でも頼まれたら断れないんだよなぁ……」
「また人の分まで手伝ったのか?」
「うん」
「お前、ほんとそういうとこだぞ」
ナカムラは笑ってごまかしたが、その目の下の隈は濃かった。
少し離れた場所では、アオイが鏡を見ながら前髪を直していた。
「ねえユナ、これ変じゃない?」
「似合ってるわ」
「ほんと!? ……でもお姉ちゃんの方が可愛いってまた言われそう……」
言った後、自分でしまったという顔をする。
ユナは優しくその肩に触れた。
「今日はアオイを見てる人もちゃんといるわ」
「……ユナってたまにずるい」
アオイは照れ隠しのように笑った。
教室の扉が開く。
ミサキが友人たちと入り、いつものように明るく笑っていた。
だがラフリを見つけると、歩調が少しだけ変わる。
そのまま彼の机の前で止まった。
「おはよう」
「……お、おう」
「なによその反応」
「いや、普通に挨拶されると思ってなくて」
「失礼ね」
そう言いながら、ミサキは机の上にノートを置く。
「昨日の、返して」
「あ、悪い」
ラフリが慌てて取り出すと、ミサキは受け取って鼻を鳴らした。
「ちゃんと役に立ったならいいけど」
「助かったよ。ありがとな」
「……そう」
それだけ言って去っていく。
耳が赤かった。
ナカムラがにやにやと肘で突く。
「進んでるなぁ」
「進んでねえよ」
「何が?」
「全部!」
後ろからアオイの声が飛ぶ。
「青春がまた進行してるー!」
「お前その言葉好きだな」
笑い声が広がる。
その中心で、ユナもいつも通り微笑んでいた。
完璧な、穏やかな笑顔で。
昼休み。
ラフリはミサキに呼ばれ、教室の外へ出ていった。
「ちょっと相談あるんだけど」
「なんで俺?」
「暇そうだから」
「理由ひどくない?」
二人のやり取りに、教室の空気が少し和む。
アオイは机に突っ伏しながら騒いだ。
「また行ったー!」
ローズはつまらなそうに窓の外を見る。
「騒がしいわね」
「そうかしら」
ユナは弁当箱を開きながら答える。
「あなた、気にならないの?」
「何が?」
「……別に」
ローズは視線を逸らした。
ユナは静かに箸を動かす。
いつもなら。
昼休みのどこかでラフリが近くにいた。
何気ない会話があった。
特別な意味なんてなくても、それが自然だった。
けれど今日は違う。
たったそれだけのこと。
本当に、たったそれだけのはずなのに。
「ユナ?」
アオイの声で我に返る。
「ぼーっとしてたよ?」
「……少し考え事」
「珍しいね」
ユナは微笑む。
その笑顔は崩れない。
崩せない。
放課後。
委員会の呼び出しで、ユナは一人だけ教室に戻るのが遅れた。
扉を開けると、もうほとんどの生徒はいなかった。
窓の外は夕暮れ。
残っていたのは、ラフリとミサキ。
黒板の前で何かを話し、笑っている。
楽しそうだった。
自然で、無理のない空気。
ユナは一歩だけ止まる。
その瞬間、誰にも気づかれないほど小さく――胸が痛んだ。
「……あ、ユナ」
ラフリが振り向く。
「おかえり」
何気ない一言。
いつも通りの声。
「ただいま」
ユナもいつも通り返す。
何も変わっていない。
変わっていないはずなのに。
ミサキは二人を交互に見て、少し気まずそうに鞄を持った。
「じゃ、私先帰る」
「おう、また明日」
「……また明日」
ミサキが出ていく。
静かになった教室で、夕陽だけが差し込んでいた。
「委員会、長かったな」
「ええ、少しだけ」
「そっか」
会話が続かない。
そんなこと、前はなかった気がする。
ラフリは首を傾げる。
「ユナ?」
「なに?」
「……なんか今日、疲れてる?」
その言葉に、ユナの心臓が小さく跳ねた。
見抜かれたくなかった。
でも、少しだけ気づいてほしかった。
矛盾した感情。
「気のせいよ」
そう答える。
いつものように、綺麗に。
ラフリは納得していない顔だったが、それ以上は聞かなかった。
二人で並んで教室を出る。
廊下の窓に映る自分は、いつも通り完璧だった。
なのにどうしてか――
今日はその笑顔が、少しだけ遠かった。
別の校舎の影。
その様子を見ていた者がいた。
「始まったか」
ゼータが静かに笑う。
隣でヤジドはため息をつく。
「お前は本当に性格が悪いな」
「違う。人間が勝手に揺れているだけだ」
「……ほどほどにしろ」
ゼータは答えず、夕暮れの空を見上げた。
「さて。次は誰が壊れる?」
変わらない笑顔。
変わっていく距離。
言葉にならない小さな痛み。
それはまだ、誰にも見えない。
けれど確かに、静かに始まっていた。




