第9話 帰る場所と、壊したくない日常
夕方。
学院の門を出る頃には、 空はオレンジ色に染まり始めていた。
授業は終わり。 生徒たちはそれぞれの帰り道へ向かっていく。
笑い声。 自転車の音。 少し騒がしい放課後の空気。
だけど――
俺の頭の中には、 別の声がずっと残っていた。
『未来が分かる人がいたら』
『幸せだと思う?』
『それとも呪い?』
ローズ。
あの銀髪の少女の笑顔が、 何度も頭に浮かぶ。
(……考えすぎだ)
小さく息を吐く。
そうだ。 今日は何も起きていない。
ユナは生きている。
事故もなかった。
なら、 今はそれでいいはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、 俺はゆっくり家の扉を開けた。
その瞬間。
「フリおにいちゃん! おかえりー!!」
元気すぎる声が飛んできた。
――帰ってきた。
そう思った瞬間、 胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
---
「うおっ!?」
小さな影が勢いよく飛びついてくる。
反射的に受け止めると、 そこにいたのはユメだった。
「遅かった!」
「普通だろ……」
「普通じゃないもん!」
ユメはむっとした顔をする。
「最近のフリおにいちゃん、ずっと変!」
「……そうか?」
「そう!」
彼女は真剣な顔で頷いた。
「なんかずっと怖い顔してる!」
その言葉に、 一瞬だけ心臓が止まりそうになる。
怖い顔。
そんなつもりはなかった。
でも。
もしかしたら本当に、 俺は少しずつ変わっているのかもしれない。
「ラフリ、先に手を洗いなさい」
キッチンから母さんの声が聞こえる。
「もうすぐ夕飯よ」
「……分かった」
返事をしながら洗面所へ向かう。
鏡を見る。
そこに映った自分の顔は、 確かに少し疲れて見えた。
目の下の薄い隈。
どこか張り詰めた目。
ほんの数日前まで、 ただの普通の高校生だったはずなのに。
今はもう、 自分でも少し分からなくなっている。
蛇口をひねる。
冷たい水が、 熱くなった頭を少しだけ冷やした。
◇
リビングへ入ると、 父さんが新聞を読んでいた。
「帰ったのか、ラフリ」
「……ただいま」
父さんは新聞を畳み、 少しだけこちらを見る。
「学院はどうだ」
「普通だよ」
短く答える。
すると父さんは少し黙ったあと、 静かに言った。
「……無理はするな」
一瞬、 言葉が止まる。
「え?」
「最近、顔色が良くない」
父さんはそれ以上は聞かなかった。
ただ、 それだけ言って再び新聞へ視線を戻す。
不器用だ。
昔からそうだった。
でも――
ちゃんと見てくれていたんだな、 と思った。
そのことが少しだけ、 胸に刺さった。
◇
しばらくして、 夕食の時間になる。
テーブルには、 温かい料理が並んでいた。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
母さんの手料理。
静かな食卓。
当たり前の日常。
なのに。
今の俺には、 それがひどく眩しく見えた。
「いただきます」
四人の声が重なる。
その瞬間。
ふと、 頭の奥に嫌な想像が浮かんだ。
――もし。
もし次のループで、 この光景が消えたら?
もし。
ユメが。
母さんが。
父さんが。
突然いなくなったら。
「……っ」
無意識に、 スプーンを握る手に力が入る。
「フリおにいちゃん?」
ユメが不思議そうにこちらを見る。
「あ、いや……なんでもない」
慌てて笑う。
……ダメだ。
家にいると、 逆に怖くなる。
失いたくないものが、 ここには多すぎる。
その時。
ユメが急ににやっと笑った。
「ねえねえ」
嫌な予感がした。
「フリおにいちゃん」
「……なんだよ」
ユメはぐいっと身を乗り出す。
「学院に可愛い子いる?」
「ぶっ」
盛大にむせた。
母さんが吹き出す。
「ユメ、急に何言ってるの」
「だって!」
ユメは楽しそうに言った。
「最近ずっと変なんだもん!」
父さんが新聞越しにこちらを見る。
「ほう」
やめろその反応。
ユメはさらに追撃してくる。
「絶対好きな子できたんだよ!」
「違う」
即答した。
だが。
頭の中に、 ユナの顔が浮かんでしまう。
雨の日。
屋上。
あの笑顔。
燃える車。
――胸が痛む。
「……あ」
ユメの目が鋭くなる。
「今絶対誰か思い浮かべた!」
「違うって!」
「怪しいー!」
ユメは完全に面白がっていた。
母さんも苦笑している。
父さんは静かにコーヒーを飲んでいた。
騒がしい。
平和だ。
普通の家族だ。
なのに。
俺はふと思ってしまう。
(……この時間が)
(ずっと続けばいいのに)
そんな願いが、 頭をよぎってしまった。
◇
夕食の後。
俺は自分の部屋へ戻った。
窓を開ける。
夜風が静かに入り込んできた。
遠くの街灯。
静かな住宅街。
穏やかな夜。
ベッドへ腰を下ろし、 小さく息を吐く。
家にいる間だけは、 少し楽だった。
学院にいる時みたいに、 常に神経を張らなくていい。
ユメの声。
母さんの料理。
父さんの静かな言葉。
ここは、 ちゃんと“帰る場所”だった。
……だからこそ。
怖い。
もしこの日常まで、 ループに壊されたら。
もし次は、 家族が巻き込まれたら。
そこまで考えた瞬間。
――ブルッ。
スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
ゆっくり画面を見る。
知らない番号だった。
嫌な予感がする。
少し迷ってから、 通知を開く。
そこに書かれていたのは、 たった一文。
『大切なものが増えると、怖くなるよね』
――凍りついた。
息が止まる。
指先が冷える。
その直後、 もう一件メッセージが届いた。
『おやすみ、ラフリ』
送信者不明。
だが。
頭の中には、 あの銀髪の少女の笑顔しか浮かばなかった。
◇
同じ頃。
暗い部屋。
スマホの光だけが、 少女の顔を照らしていた。
ローズは画面を見ながら、 小さく微笑む。
「やっぱり」
静かな声。
「あなた、“覚えてる側”なんだね」
その瞳は、 楽しそうに細められていた。
まるで。
長い間探していた玩具を、 ようやく見つけた子供みたいに。
---
その夜。
ラフリは眠れなかった。
ベッドに横になっても、 頭の中では何度も同じ言葉が繰り返される。
『大切なものが増えると、怖くなるよね』
偶然じゃない。
あれは間違いなく、 自分に向けられた言葉だった。
ローズは知っている。
少なくとも、 普通じゃない。
そして何より怖いのは――
あいつが、 少しずつ自分の日常へ入り込んできていることだった。
学院だけじゃない。
ループだけじゃない。
もっと深く。
もっと近くへ。
窓の外では、 静かな夜風が揺れている。
だけどラフリには、 その音さえ不気味に聞こえた。
まるで世界そのものが、 ゆっくり歪み始めているみたいに。




