第10話 沈黙を試す薔薇
翌日。
朝の学院は、昨日と変わらないはずだった。
廊下を歩く生徒たち。 窓から差し込む朝日。 教室から聞こえる笑い声。
全部、普通だ。
……なのに。
俺の足だけが、少し重かった。
理由は分かっている。
教室の扉の向こう。 そこには――ローズがいる。
昨日からずっと、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
まるで。
自分だけが秘密を抱えたまま、 猛獣の檻に入ろうとしているみたいな感覚。
「……考えすぎだ」
小さく呟く。
けれど。
その言葉は、自分自身を安心させるには足りなかった。
俺は静かに教室の扉を開けた。
「おはよう、ラフリ」
最初に声をかけてきたのはユナだった。
窓際の席。 朝日を受けながら、彼女は小さく手を振る。
「……おはよう」
俺は短く返した。
そして。
その隣。
「おはよう」
ローズが柔らかく微笑む。
完璧な笑顔。
自然な声。
誰が見ても、ただの綺麗な転校生だった。
……でも。
その視線だけが妙に怖い。
まるで。 表情の奥で、何かを観察しているみたいだった。
俺は視線を逸らし、そのまま席へ座る。
(落ち着け)
(ただの転校生だ)
(まだ何も知られてない)
そう思い込もうとした、その時。
「ねえユナ」
ローズが楽しそうに口を開いた。
「今日って午後、授業少ないよね?」
「うん、そうだけど」
ユナが頷く。
「どうして?」
「学院を探検したいなーって」
ローズは窓の外を見ながら笑った。
「まだ知らない場所いっぱいあるし」
「じゃあ案内しようか?」
ユナが少し嬉しそうに言う。
「本当?」
「うん。図書館とか中庭とか、結構綺麗だよ」
ローズは目を輝かせた。
「へえ、楽しそう」
そして。
ゆっくりとこちらを見る。
「ラフリも来る?」
その瞬間。
胸の奥が嫌にざわついた。
昨日と同じ流れ。
まただ。
まるで。
誰かに物語をなぞらされているみたいに。
「……暇ならな」
短く答える。
ローズは満足そうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
なぜか背筋に冷たいものが走った。
◇
放課後。
学院の廊下は静かだった。
夕陽が窓から差し込み、 床に長い影を落としている。
ユナが前を歩きながら振り返る。
「次は図書館かな」
「学院で一番静かな場所だよ」
「へえ」
ローズは興味深そうに周囲を見渡した。
「なんか好きかも、こういう雰囲気」
三人で歩く。
静かな時間。
だけど。
俺だけは落ち着かなかった。
時々。
ローズの視線を感じる。
横から。
後ろから。
まるで。
俺の反応を確認しているみたいに。
図書館へ入る。
静寂。
紙の匂い。
本棚の隙間を流れる夕方の光。
遠くで誰かがページをめくる音だけが聞こえる。
ローズはゆっくり本棚の間を歩き始めた。
「すごい」
「本がいっぱいある」
「この学院、昔からあるからね」
ユナが少し誇らしそうに笑う。
ローズは指先で本の背表紙をなぞっていく。
歴史書。 天文学。 神話。 哲学。
やがて。
彼女の手が一冊の本で止まった。
「……ん?」
黒い表紙。
古びたタイトル。
ローズはその本を引き抜く。
「ねえ、ラフリ」
突然名前を呼ばれた。
「……なんだ」
ローズは本を開きながら言った。
「こういう話って、信じる?」
「どういう話だよ」
ローズはページをゆっくりめくる。
そして。
静かに言った。
「世界が何度も繰り返される話」
――その瞬間。
心臓が止まりかけた。
ドクンッ。
耳の奥で、自分の鼓動だけが響く。
頭の中に。
炎がよぎった。
砕ける車。
血。
雨。
ユナの死体。
『助けて――』
「ラフリ?」
ユナの声で我に返る。
気づけば。
俺の手は強く握り締められていた。
爪が食い込むほどに。
「……どうしたの?」
「いや……別に」
無理やり声を出す。
ローズはそんな俺を静かに見ていた。
逃がさないように。
観察するように。
「面白いよね」
ローズはページをめくりながら続ける。
「同じ時間」
「同じ人」
「同じ出来事」
「でも――」
そこで彼女は顔を上げた。
その視線が。
まっすぐ俺を捉える。
「たまに、それに気づく人がいる」
空気が止まった気がした。
図書館の音が遠くなる。
呼吸が浅くなる。
嫌な汗が背中を流れた。
「え?」
ユナが少し驚いた顔をする。
「そんな話あるの?」
「うん」
ローズはくすっと笑う。
「古い海外小説らしいよ?」
「永遠に同じ時間を繰り返す主人公の話」
そう言いながら。
まだ俺を見ている。
試している。
確かめている。
――こいつ。
どこまで知ってる?
「もし本当にそんなことが起きたら」
ローズは静かに首を傾げた。
「ラフリはどう思う?」
息が詰まる。
言葉を間違えるな。
ここで変な反応をしたら終わる。
「……知らないな」
短く答える。
「そんなの、ただの作り話だろ」
数秒。
沈黙。
ローズはじっと俺を見ていた。
まるで。
嘘を見抜こうとしているみたいに。
やがて。
ふっと微笑む。
「そっか」
それだけ言って、本を閉じた。
でも。
その目だけは笑っていなかった。
◇
図書館を出た後。
帰り道。
空はもう暗くなり始めていた。
三人で並んで歩く。
静かな時間。
風が少し冷たい。
その時。
ローズが小さく呟いた。
「でもさ」
ユナが振り向く。
「なに?」
ローズは少しだけ笑った。
そして。
静かに言った。
「もし未来を知ってる人がいたら」
一瞬だけ。
彼女の視線が俺に向く。
「きっと」
小さく続ける。
「毎日、すごく怖いんだろうね」
その瞬間。
胸の奥が凍りついた。
ローズは何事もなかったように前を向く。
ユナは不思議そうな顔をしていた。
だけど俺だけは分かっていた。
こいつは。
ただの転校生じゃない。
そして――
こいつはもう、 かなり近くまで来ている。
俺の秘密の、 すぐ傍まで。
その夜。
部屋に戻っても、俺は眠れなかった。
窓の外では風が鳴っている。
机の上には学院のノート。
だけど。
頭に浮かぶのは、 ローズの言葉ばかりだった。
『たまに、それに気づく人がいる』
『未来を知ってるそ人』
偶然か?
ただの試しなのか?
それとも――。
「……いや」
俺は小さく首を振る。
考えすぎだ。
そう思わないと、 心が壊れそうだった。
だが。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、 図書館で笑っていたローズの顔。
あの微笑み。
あの視線。
まるで。
「あなた、本当に知らないの?」
そう問いかけてくるみたいだった。
そしてその瞬間。
ラフリはまだ知らない。
この“沈黙の試し”こそが――
後に始まる、 最悪の心理戦の始まりだったことを。




