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第八十三話:予想外の一歩

壊れる瞬間は、いつだって静かに始まる。

小さな違和感。

抑えきれない感情。

誰にも言えない“ノイズ”。

それらは積み重なり――

やがて、一つの臨界点に到達する。

その時。

世界は簡単に、音もなく崩れる。

けれど――

もし、その瞬間に“誰か”が間に合ったなら。

物語は、別の形へと歪み始める。

放課後。

教室は静まり返っていた。

数人の生徒が、まだ残っている。

だが誰も大きな声を出さない。

空気が重い。

見えない何かが、全員の心を押しつぶしている。

「……アオイ、見なかった?」

小さな声。

誰かの問い。

ラフリの手が止まる。

ノートの上で。

(……いない)

嫌な予感。

昨日の光景。

震える手。

崩れかけた目。

(まずい)

立ち上がる。

椅子が音を立てる。

「ラフリ?」

誰かが呼ぶ。

だが、止まらない。

(間に合え……)

廊下を走る。

足音が響く。

息が荒くなる。

(また……)

頭の中に浮かぶ。

ナカムラの時。

間に合わなかった数秒。

(今度こそ……!)

屋上へ続く階段。

一段飛ばしで駆け上がる。

ドア。

手をかける。

開ける。

ギィィ――

風。

強い風。

そこに――

いた。

アオイ。

フェンスの前。

背を向けている。

一歩。

それだけで終わる距離。

「……アオイ!!」

声が響く。

風にかき消されながら。

アオイが、ゆっくり振り向く。

その目は――

焦点が合っていなかった。

「……ああ」

小さく呟く。

「来たんだ」

笑う。

壊れた笑み。

ラフリの心臓が、強く打つ。

「……大丈夫だ」

言ってしまう。

反射的に。

(違う……!)

分かっている。

この言葉は届かない。

「またそれ?」

アオイが笑う。

「大丈夫って……なに?」

一歩、後ろへ。

フェンスに背中が触れる。

カタン。

金属音。

「ずっとね」

頭を押さえる。

「うるさいの」

呼吸が乱れる。

「誰もいないのに」

ラフリは一歩近づく。

ゆっくりと。

「声がするの……」

アオイの目から涙が落ちる。

「止まらないの……!」

叫び。

ラフリの足が止まる。

(どうすればいい……)

分からない。

言葉が浮かばない。

(また……)

その時。

カツン。

足音。

振り向く。

ローズ。

静かに立っている。

まるで――

最初からここにいたかのように。

「間に合ったね」

微笑む。

ラフリは歯を食いしばる。

(こいつ……)

ローズの視線はアオイに向いている。

「綺麗だね」

小さく呟く。

「壊れる直前って」

アオイの呼吸がさらに乱れる。

指がフェンスを強く握る。

(……やめろ)

ラフリが踏み出す。

「待て――」

その瞬間。

「やめて」

別の声。

空気が止まる。

ラフリも、ローズも――

同時に振り向く。

屋上の入口。

そこに立っていたのは――

ユナ。

静かに。

でも確かに、そこにいる。

(……なんで)

ラフリの思考が止まる。

動かなかったはずの存在。

見ているだけだった存在。

そのユナが――

歩き出す。

一歩。

また一歩。

迷いがない。

ラフリの横を通り過ぎる。

その瞬間。

ほんのわずかに視線が交わる。

何も言わない。

でも――

(……違う)

何かが、決定的に違う。

ユナはアオイの前で止まる。

距離は、ほんの一歩。

「……大丈夫だよ」

静かな声。

ラフリと同じ言葉。

でも――

重さが違う。

アオイの目が揺れる。

「聞こえるんでしょ?」

沈黙。

「止まらない声」

アオイの呼吸が止まる。

「私も……少しだけ分かる」

その一言。

空気が変わる。

ラフリの目が見開かれる。

ローズの表情が、わずかに固まる。

(……なんで分かる)

アオイの唇が震える。

「……なんで」

ユナはゆっくりと手を伸ばす。

逃げない距離。

「分かるよ」

優しく。

でも、曖昧じゃない。

「だから――」

一歩、近づく。

「一人じゃない」

その瞬間。

アオイの中で、何かが崩れる。

「……っ」

涙が溢れる。

フェンスを握っていた手が、力を失う。

膝が崩れる。

「……助けて」

小さな声。

壊れた声。

ユナは迷わず抱き止める。

静かに。

しっかりと。

ラフリは動けなかった。

(……届いてる)

同じ言葉。

同じ距離。

なのに――

(俺とは違う)

ローズはそれを見ていた。

無言で。

ほんのわずかに。

表情が歪む。

「……へぇ」

小さく呟く。

「面白い」

初めて。

予想が外れた時の声。

壊れるはずだった少女は、

その一歩手前で止められた。

それは、奇跡ではない。

ただ一つの“違い”。

そして――

予想外の存在が、

物語に介入した。

少年でもなく、

計画でもなく。

ただ、一人の少女の意思によって。

物語は今、確実に歪み始めている。

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