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第八十二話:抑えきれない音

静かな異常は、やがて音になる。

最初は、小さく。

誰にも気づかれないほどに。

けれど――

それは確実に、壊れる前の“音”だった。

朝。

教室はいつも通りだった。

誰かが笑い、

誰かが話し、

日常が流れている。

何も変わらない。

そう見える。

(……本当に?)

ラフリは席に座ったまま、視線を横にずらす。

アオイ。

彼女はもう来ていた。

机に向かい、ノートを開いている。

ペンを持ち、文字を書いている。

完璧な動き。

乱れはない。

(昨日と同じだ……)

いや。

違う。

カリッ。

ペン先が、紙を引っかいた。

ほんの小さな音。

アオイの手が止まる。

「……っ」

小さな息。

そして――

何もなかったかのように、また書き始める。

(抑えてる……)

ラフリの中で、確信に近い何かが生まれる。

授業。

教師の声が流れる。

黒板に書かれる数式。

誰もがそれを追っている。

「では、この問題――」

名前が呼ばれる。

「アオイさん」

一瞬。

沈黙。

「……はい」

立ち上がる。

歩く。

黒板へ。

チョークを持つ手。

わずかに、震えている。

(見えてる……)

ラフリは目を細める。

アオイは式を書く。

途中まで、順調。

だが――

ピタッ。

止まる。

「……あれ?」

小さな声。

教室の空気が変わる。

ほんの少しだけ。

(間違えた……?)

アオイはもう一度見る。

式を。

自分の書いたものを。

(……なんで分からないの?)

頭の中が、ざわつく。

言葉が浮かぶ。

知らないはずの声。

(違う……違う……)

「……っ」

チョークが折れる。

パキッ。

乾いた音。

教室が静まる。

「……ごめんなさい」

小さく呟く。

そのまま席に戻る。

誰も何も言わない。

言えない。

ラフリの拳が、わずかに握られる。

(来てる……)

確実に。

休み時間。

ざわめきが戻る。

だが――

どこかぎこちない。

アオイは席に座ったまま。

何もしていない。

ノートも開かない。

「……アオイ?」

ミサキが声をかける。

「大丈夫?」

一瞬。

間。

「……うん」

笑う。

ぎこちない。

でも笑う。

「ちょっと寝不足なだけ」

嘘だ。

誰でも分かる。

ミサキは少し迷って、

「そっか」とだけ言った。

そのやり取りを、ラフリは見ていた。

(ダメだ……)

昨日と同じ。

いや。

もっと悪い。

(言葉じゃ届かない……)

考える。

どうすればいい。

何をすれば。

その時。

視界の端に――

ローズ。

彼女は静かに見ていた。

この空気を。

このズレを。

そして。

ほんのわずかに――

笑った。

(……あいつ)

ラフリの中で、何かが引っかかる。

放課後。

教室には、数人しか残っていない。

アオイはまだ席にいた。

動かない。

ラフリは立ち上がる。

ゆっくりと近づく。

「……帰らないのか」

反応が遅れる。

一拍。

「……あ、うん」

顔を上げる。

目が、少しだけ赤い。

「もう帰るよ」

立ち上がる。

鞄を持つ。

その時。

ガタッ。

椅子が大きく音を立てる。

「っ……!」

アオイが肩を震わせる。

呼吸が乱れる。

明らかに。

(……今だ)

ラフリは一歩踏み出す。

「アオイ」

彼女が止まる。

振り向かない。

「……無理してるだろ」

沈黙。

「……してない」

即答。

「してる」

ラフリは続ける。

「ナカムラの時と同じだ」

その瞬間。

空気が止まる。

アオイの肩が、わずかに震える。

「……やめて」

小さな声。

「同じじゃない」

振り向く。

その目は――

揺れていた。

「私は……あんなじゃない」

声が、少しずつ強くなる。

「壊れてない」

一歩。

近づく。

「普通だよ」

でも。

その言葉は――

完全に崩れていた。

「普通……なのに……」

呼吸が乱れる。

言葉が途切れる。

「なんで……」

頭を押さえる。

「うるさい……!」

叫び。

初めて。

教室に響く。

ラフリの目が見開かれる。

(……来た)

でも。

まだ――完全じゃない。

アオイはそのまま後ろに下がる。

「……ごめん」

小さく呟く。

「……ごめん……」

そのまま、教室を飛び出した。

バタン。

ドアの音。

沈黙。

ラフリは、その場に立ち尽くす。

(……足りない)

まだ。

何かが足りない。

(このままじゃ……また)

その時。

背後から声。

「惜しかったね」

振り向く。

ローズ。

静かに立っている。

「あと少しだったのに」

微笑む。

ラフリは何も言わない。

ただ見つめる。

ローズは首を傾ける。

「でもね」

一歩、近づく。

「人は、壊れる直前が一番綺麗なんだよ」

その言葉。

冷たい。

「だから――」

ほんの少しだけ、目が鋭くなる。

「まだ壊さない」

沈黙。

ラフリの背筋に、冷たいものが走る。

小さな違和感は、やがて音になる。

抑えきれない感情。

崩れかけた心。

それでも――

まだ、完全には壊れていない。

だが。

確実に、近づいている。

“その瞬間”に。

そして少年は知る。

救うには――

まだ足りないということを。

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