第101話『消えない名前』
過去は、終わった出来事のはずだった。
時間が過ぎれば薄れていく。
新しい場所へ行けば置いていける。
そう思いたいものほど、ふいに目の前へ現れる。
忘れたかった名前。
思い出したくない声。
それらは時に、今の自分を簡単に揺らしてしまう。
公園の入口。
夕焼けを背にした数人の影が、こちらへ歩いてくる。
笑いながら。
何でもない顔で。
ただ通りかかっただけのように。
けれどミサキの表情は、明らかに違っていた。
顔色が白い。
肩が強張っている。
呼吸まで浅くなっていた。
ラフリはベンチから立ち上がる。
「……知り合い?」
返事はない。
ミサキは視線を逸らしたまま、小さく唇を噛んでいる。
その間にも、相手は近づいてきた。
そして中心にいた女子が、ミサキを見つけて足を止める。
「あれ?」
明るい声だった。
だがその一言だけで、ミサキの指先が震える。
「……ミサキじゃん」
その名前の呼び方に、親しさはなかった。
懐かしさを装った、薄い棘。
周りの男女も足を止める。
「え、ほんとだ」
「久しぶりじゃね?」
「元気してた?」
笑っている。
軽い調子。
悪意は見えない。
それでも、空気が冷たい。
ミサキは無理やり口角を上げた。
「……久しぶり」
声が硬い。
ラフリは彼女の横顔を見る。
昨日までのミサキじゃない。
教室で笑う彼女でも、皮肉を返す彼女でもない。
ただ、過去に引き戻された誰かだった。
「あんた、変わらないねー」
女子が笑う。
「その顔。なんか機嫌悪そうなの」
周囲がくすっと笑う。
ミサキの肩が揺れた。
「……別に」
「うわ、出た。そういう言い方」
また笑い声。
ラフリの胸の奥がざわつく。
これは冗談なのか。
ただの昔話なのか。
けれどミサキは、まったく笑えていない。
「で、そっちは誰?」
一人の男子がラフリを見る。
ようやく視線がこちらへ向いた。
「彼氏?」
「えー、ミサキに?」
「失礼じゃん」
軽口。
何でもない会話。
なのに一つ一つが、人を試すようだった。
「違う」
即座にミサキが言う。
少し強すぎるほどに。
「クラスメイト」
「へえ」
女子が面白そうにラフリを見る。
「物好きなんだね」
その瞬間。
ラフリの中で、何かが引っかかった。
意味はわからない。
でも、言い方が嫌だった。
誰かを昔のまま決めつけるような。
変わることを認めないような。
ミサキは視線を落としている。
反論しない。
いや、できないのかもしれない。
ラフリは一歩前へ出た。
「……物好きってなんだよ」
場の空気が止まる。
ミサキが目を見開いた。
「ラフリ」
小さく名前を呼ばれる。
だがラフリは続けた。
「知らないけど、今の言い方は感じ悪いだろ」
沈黙のあと、男子の一人が吹き出した。
「なに、正義感?」
「ちげーよ」
「熱いねえ」
笑われる。
言い返そうとして、言葉が詰まる。
うまくできない。
格好いいことなんて言えない。
それでも、黙るのは違う気がした。
「……少なくとも、俺にはそう聞こえた」
女子は少しだけ驚いた顔をした。
やがて肩をすくめる。
「ごめんごめん。そんな怒ると思わなかった」
謝っているのに、軽い。
けれどそれ以上続ける気も失せたのか、彼女たちは「じゃあね」と手を振って去っていった。
笑い声だけを残して。
公園に静けさが戻る。
ミサキはしばらく動かなかった。
やがて低い声で言う。
「……なんで」
「え?」
「なんで出てくるの」
怒っているようにも、泣きそうにも聞こえた。
「だって、お前嫌そうだったし」
「だからって……」
そこで言葉が止まる。
拳を握りしめたまま、俯く。
「余計なお世話」
震える声だった。
ラフリは少し迷ってから答える。
「……それ、たぶん知ってる」
「は?」
「でも放っておけなかった」
ミサキは顔を上げる。
目が揺れていた。
怒りでも拒絶でもない。
もっと複雑な感情。
「……ばか」
ぽつりと落ちた一言は、いつもよりずっと弱かった。
そして次の瞬間。
ミサキはラフリの袖を、ほんの少しだけ掴んだ。
すぐ離されるほど、小さく。
けれど確かに。
助けを拒む口とは違う、正直な手だった。
消えない名前。
消えない記憶。
それでも変わりたい今の自分。
過去に揺らぐ彼女の隣で、
ラフリはまだ何も知らないまま立っていた。




