第七十二話:一人じゃ、足りない
守れなかった理由は、分かっている。
力が足りなかったわけじゃない。
覚悟が足りなかったわけでもない。
――ただ、知らなかっただけだ。
そして少年は気づく。
一人では、すべてを知ることはできないと。
静かだった。
放課後の教室。
誰もいない空間で、ラフリは一人、席に座っていた。
ノートが開かれている。
文字で埋め尽くされたページ。
震える指で、その一行をなぞる。
『チャイム前、ナカムラに誰かが接触』
「……誰だ」
小さく呟く。
思い出そうとする。
あの時の光景。
ざわついた空気。
一瞬の違和感。
(見てたはずだ……)
確かに、視界に入っていた。
でも。
「……覚えてない」
歯を食いしばる。
たったそれだけで。
結果が変わる。
人が傷つく。
守れない。
ラフリはペンを握る。
新しいページを開く。
そして、書いた。
『分からないこと』
・ナカムラに話しかけた人物
・きっかけになった言葉
・昼前の違和感の正体
手が止まる。
「……足りない」
情報が、足りない。
自分一人では。
全部を見ることなんて、できない。
その事実が、静かに胸に落ちる。
「……俺、一人じゃ――」
言葉が途切れる。
悔しさ。
無力感。
でも。
今回は違う。
ラフリはゆっくり顔を上げた。
「……なら」
小さく、息を吐く。
「借りるしかないだろ」
立ち上がる。
椅子が小さく音を立てた。
教室を出る。
廊下。
夕方の光。
その中で、ラフリは足を止めた。
(誰に……頼む?)
頭の中に、いくつかの顔が浮かぶ。
ヨヨ。
セラ。
そして――
ナカムラ。
少し、迷う。
でも。
一番近いのは――
あいつだ。
校舎裏。
人気のない場所。
ナカムラは壁にもたれて座っていた。
ラフリはゆっくり近づく。
「……ナカムラ」
声をかける。
ナカムラは顔を上げる。
少しだけ、驚いたような顔。
「……なんだよ」
空気が重い。
当たり前だ。
あの後だ。
簡単に話せるわけがない。
ラフリは一瞬、言葉を失う。
(何て言えばいい……)
考える。
でも――
うまく出てこない。
だから。
「……腹減ってるか?」
自分でも驚く言葉が出た。
ナカムラが一瞬、固まる。
「は?」
ラフリは視線を逸らした。
「いや、その……」
少しだけ頭をかく。
「食堂、付き合えよ」
沈黙。
数秒。
やがて――
ナカムラが小さく笑った。
「……なんだそれ」
少しだけ。
空気が、緩む。
ラフリはほっと息を吐いた。
食堂。
夕方で人は少ない。
二人は向かい合って座っていた。
沈黙。
気まずい空気。
ラフリはパンをちぎりながら、口を開く。
「……さっきのこと」
ナカムラの手が止まる。
「……ああ」
短い返事。
ラフリは続ける。
「お前、あの前に……誰かと話してただろ」
ナカムラは少しだけ目を細めた。
「……なんで知ってんだよ」
「見た気がするだけだ」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
ナカムラはしばらく黙る。
そして――
「……覚えてねえよ」
小さく言った。
「ただ、なんか……イラついてた」
拳を握る。
「どうでもいいことで、急に……」
ラフリの心臓が鳴る。
(やっぱり……外からの何かだ)
「誰か、変なこと言ってなかったか?」
ナカムラは考える。
でも。
「……分かんねえ」
首を振る。
「でも」
少しだけ顔を上げる。
「お前が来た時」
ラフリを見る。
「……なんか、正気に戻った」
その言葉に、ラフリは少しだけ目を見開いた。
「……そうか」
小さく呟く。
(遅かったけど……意味はあった)
ナカムラはパンをかじる。
「お前さ」
ぼそっと言う。
「変だよな」
「……よく言われる」
ラフリが返すと、ナカムラは少しだけ笑った。
「でもまあ」
視線を逸らしながら。
「……ありがとな」
その一言が。
静かに、胸に落ちた。
同じ頃。
校舎の別の場所。
静かな廊下。
ローズは一人、窓の外を見ていた。
風がカーテンを揺らす。
その目は――
少しだけ細められている。
「……おかしい」
小さく呟く。
「このタイミングで、接触してるはずがない」
指が窓枠をなぞる。
思考。
記憶。
夢の断片。
「違う」
首を振る。
「まだ、確定じゃない」
でも――
ほんの少しだけ。
ズレている。
ローズはふっと微笑んだ。
「面白い」
その声は、静かだった。
「ラフリ」
小さく呟く。
「あなた……何を見てるの?」
夜。
自室。
ラフリはノートを開く。
今日のページ。
そこに、新しく書き足す。
・ナカムラ:外的要因で感情変化
・完全な記憶なし
・接触タイミング不明
そして――
少しだけ、手を止める。
新しい項目を書く。
『協力者』
少し迷ってから。
名前を書く。
――ナカムラ
ラフリは小さく息を吐いた。
「……一人じゃ、足りない」
でも。
今は違う。
ほんの少しだけ。
前に進んでいる。
ペンを置く。
目を閉じる。
そして――
静かに呟いた。
「次は、先に動く」
その声は、まだ弱い。
でも――
確かに、変わり始めていた。
少年は知った。
一人では、限界があることを。
そして――
他人に頼ることが、弱さではないということを。
小さな変化。
小さな前進。
だがその一歩が、
やがて大きな運命を揺らすことになる。
そして――
それを見つめる者もまた、
静かに動き始めていた。




