第六十一話:違和感の始まり
違和感というものは、
大きな音を立てて現れるわけではない。
むしろそれは――
誰にも気づかれないほど小さく、
静かに、
日常の隙間へと入り込んでくる。
そしてそれに気づいた者だけが、
“世界がズレ始めている”ことを知る。
朝。
教室には、いつも通りの光景が広がっていた。
窓から差し込む柔らかな陽光。
机と椅子の擦れる音。
他愛もない会話。
笑い声。
すべてが、いつも通り――
のはずだった。
だが。
「……」
ラフリは、自分の席に座ったまま、
ぼんやりと教室を見渡していた。
(……おかしい)
理由は分からない。
けれど、胸の奥に引っかかるものがある。
違和感。
言葉にできない、微かなズレ。
(何が……?)
視線を動かす。
クラスメイトたち。
ヨヨが誰かと話している。
セラが静かにノートを開いている。
トワケが椅子に座りながら大きく伸びをしている。
どれも、いつも通りだ。
(……なのに)
落ち着かない。
その時だった。
「おーい、ラフリ」
後ろから声がかかる。
振り向くと、トワケが手を振っていた。
「さっき見たか? 席、ちょっと変わってるらしいぞ」
「……席?」
ラフリは眉をひそめる。
「なんかさ、一部だけ移動してるっぽい。全員じゃないけど」
軽い調子で言うトワケ。
だが、その言葉はラフリの中で引っかかった。
(……一部だけ?)
「誰が決めたんだ」
「さあ? 先生が“調整”って言ってたけど」
トワケは肩をすくめる。
「まあ大したことじゃねーだろ」
――本当にそうだろうか。
ラフリは何も答えず、机の中からノートを取り出した。
静かにページを開く。
そして、小さく書き込む。
『・座席変更(部分的)
・理由不明
・事前告知なし』
ペン先が、わずかに震える。
(……こういうのが)
(“始まり”なんじゃないのか)
その時。
教室の前方で、小さなざわめきが起きた。
「え……?」
セラの声だった。
ラフリは顔を上げる。
セラが黒板の横に貼られた座席表を見つめている。
「どうした?」
誰かが聞く。
セラは少し戸惑ったように言った。
「……私の席、変わってる」
「え? マジで?」
「ほんとだ、名前ズレてる」
周囲がざわつく。
だが、それはすぐに収まる程度の小さな変化だった。
普通なら、
「へえ、そうなんだ」
で終わる程度の話。
――普通なら。
(……一人)
ラフリは立ち上がらず、視線だけで確認する。
座席表。
名前。
配置。
(……違う)
一人だけじゃない。
もう一人。
さらにもう一人。
(……三人)
胸の奥が、わずかに重くなる。
(偶然……か?)
いや。
そんなはずがない。
ラフリは再びノートに書き込む。
『・変更対象:複数
・共通点:不明
・同時発生』
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その視線の先には――
ローズがいた。
窓際の席。
静かに本を読んでいる。
まるで、この騒ぎとは無関係だと言わんばかりに。
(……こいつ)
なぜか分からない。
だが、目が離せない。
ローズはページをめくる。
その仕草は、あまりにも自然だった。
――だが。
ほんの一瞬だけ。
口元が、わずかに緩んだように見えた。
(……気のせいか?)
ラフリは視線を逸らす。
心臓が、少しだけ速くなる。
(まだ分からない)
(でも――)
確実に何かが動いている。
その時。
「ラフリ」
名前を呼ばれた。
振り向くと、ユナがこちらを見ていた。
「さっきから、どうしたの?」
少しだけ心配そうな顔。
ラフリは一瞬言葉に詰まる。
「……いや」
視線を落とす。
「ちょっと、考え事」
「……そう」
ユナはじっとラフリを見る。
数秒。
沈黙。
そして、静かに言った。
「一人で抱えないで」
その言葉は、優しかった。
ただ、それだけなのに――
ラフリの胸に、わずかな揺れが生まれる。
(……俺は)
一人でやろうとしていた。
また。
無意識に。
「……ああ」
小さく頷く。
ユナはそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ安心したように微笑んだ。
その笑顔を見て、
ラフリはふと思う。
(……守るだけじゃ、ダメなのかもしれない)
(頼ることも――必要なのかもしれない)
だが、その答えはまだ出ない。
ただ一つ、確かなことがある。
ラフリはノートを閉じる。
静かに。
確かめるように。
(……これは偶然じゃない)
(“誰か”がやっている)
そしてその“誰か”は――
おそらく、すぐ近くにいる。
それはほんの小さな変化だった。
誰も傷つかない。
誰も失わない。
取るに足らない、日常のズレ。
だが――
その小さな歪みこそが、
すべての始まりだった。
気づいた者は、まだ一人。
そしてその視線の先には、
何もしていないはずの少女がいる。
静かに。
確実に。
世界は、動き始めていた。




