第六章 はじめから、もう一度君を愛する(改訂版)
もし——
一番愛していた人が、
自分のことだけを忘れてしまったら……
それでも、あなたはその人を愛し続けますか?
記憶も、想い出も、約束も。
すべてが消えてしまった世界で——
それでもなお、
同じ人を選び続けることはできますか?
たとえ相手がもう、
あなたを選ばなかったとしても。
それでもあなたは——
その人の隣に立ち続けることを、選びますか?
これは、
記憶に置き去りにされても、
それでも手を離さなかった——
一人の愛の物語。
僕はその扉の前に立っていた。
白いプレートに書かれた名前。
そこに刻まれているのは——
「ユナ」
指先が、わずかに震える。
この扉を開けば、
“僕を知らない彼女”がいる。
それでも——
僕はドアノブに手をかけ、
静かに、ゆっくりと扉を開いた。
部屋の中で、彼女は窓の外を見ていた。
柔らかな朝の光に包まれて、
穏やかな横顔。
あの日と、何一つ変わらない。
ただ一つだけ——
違うのは、
その瞳の中に、僕がいないこと。
「……ユナ」
名前を呼ぶ。
彼女はゆっくりと振り向き、
そして——
少しだけ、首をかしげた。
「……誰ですか?
私たち、どこかで会ったことがありますか?」
その言葉は、
静かに、でも確かに、
胸の奥を裂いた。
それでも僕は——
微笑んだ。
何も壊さないように。
何も気づかれないように。
「いえ、最近隣に引っ越してきた者です。
ご挨拶に……これを」
手に持っていたリンゴを見せる。
彼女に近づきながら、
ナイフでゆっくり皮をむき、
昔、彼女が好きだと言っていたように——
うさぎの形に切る。
その手の動きは、
何度も、何度も繰り返した記憶のまま。
「はい。朝の新鮮なリンゴです」
彼女はそれを受け取り、
やわらかく微笑んだ。
でもその笑顔は——
もう、僕に向けられたものじゃない。
「ありがとうございます……あの……?」
「ラフリです」
「ありがとうございます、ラフリさん」
その一言が、
僕たちの距離をはっきりと形にした。
埋められない距離。
失われた時間。
戻らない記憶。
——それでも。
その時、
廊下から軽やかな足音が聞こえた。
「ママ! パパ! ミヤコ、来たよ!」
扉が開き、
元気な笑顔と一緒に現れたのは——
僕たちの娘、ミヤコ。
「ミヤコちゃん……」
ユナは自然に微笑み、
彼女を抱きしめる。
その姿は、
何も失っていないかのように優しくて。
でも僕だけが、
その中から取り残されている。
僕は静かに立ち上がり、
そっとミヤコの頭を撫でた。
「僕は少し外に行ってくるね。
ユナ、ミヤコ」
「行ってらっしゃい、パパ!」
その一言だけが、
かろうじて僕をこの世界に繋ぎ止めていた。
扉を閉める直前——
中からユナの声が聞こえた。
「ねえミヤコ……
あの人が、あなたのパパで……
私の夫なの?」
その言葉は、
まるで静かな刃のように、
僕の心を貫いた。
でも僕は振り返らない。
ただ、歩き出す。
外の空気は少し冷たかった。
僕はいつもの公園へ向かい、
あのベンチに座る。
七年前のことを思い出す。
ミヤコを産んだ日。
喜びと、涙と、
そして——
すべてを奪った事故。
医者は言った。
「彼女は……すべてを失いました。
記憶も、感情も、
そして——
最も愛していた人への想いも」
それが僕だった。
それでも——
それでも僕は、
彼女を愛している。
首元のネックレスを握る。
それは出産の前に、
彼女がくれたもの。
「ずっと一緒にいようね」
あの時の声が、
今も胸の奥で響いている。
僕は目を閉じる。
誰にも見えない場所で。
誰にも気づかれないまま。
それでも——
彼女の隣にいたいと願いながら。
たとえ、
“もう一度はじめから”だとしても。
たとえ君が僕を忘れても。
たとえ君が、
僕を知らない人として見ても。
それでも僕は——
もう一度、君を好きになる。
何度でも。
はじめから。
君が思い出す日が来なくてもいい。
君が僕の名前を呼ばなくてもいい。
それでも——
君がこの世界で笑っているなら。
それだけでいい。
僕はその隣で、
静かに、
誰にも気づかれなくても——
君を愛し続ける。
はじめから。
そして、これからもずっと。
「※本話は物語の一貫性のために加筆・修正を行いました」




