第125話:静かに侵食する想いと、戻れない一歩
感情は、ある一線を越えた瞬間に変質する。
それまで“気のせい”で済ませていたものが、
はっきりとした“意思”へと変わる。
その変化は、とても静かで――
気づいたときには、もう元には戻れない。
朝。
空は曇っている。
光は弱く、どこか重たい。
教室に入る。
いつも通りの風景。
でも――
ユナの中では、もう“いつも通り”ではなかった。
(……いる)
ラフリは席に座っている。
それだけで、ほんの少し安心する。
「おはよう」
「……おはよう」
短いやり取り。
でも、その一言にすべてが詰まっている。
(……今日も)
ここにいる。
隣にいる。
それだけでいい。
そう思っていた。
ほんの数秒前までは。
休み時間。
「ラフリ!」
また別の声。
昨日とは違う女子。
「これ、分かる?」
ノートを差し出す。
距離が近い。
自然な距離。
「……ああ」
ラフリは普通に答える。
昨日と同じ。
何も変わらない。
(……また)
胸の奥が、強く締め付けられる。
(……なんで)
分かっている。
理由は。
でも、止められない。
その子が笑う。
「ありがとう!」
明るい声。
(……嫌)
昨日より、はっきりとした感情。
(……また増える)
その予感が、
何よりも嫌だった。
「……ラフリ」
ユナが呼ぶ。
少しだけ強く。
「ん?」
ラフリが振り向く。
「これ」
ノートを差し出す。
タイミング。
完全に“被せている”。
「……今?」
さっきの女子が少し戸惑う。
「すぐ終わるから」
ユナの声は静か。
でも――
引かない。
一瞬の沈黙。
「……じゃあ、後でいいよ」
女子が引く。
「ありがと」
ユナは軽く言う。
でもその目は、
笑っていなかった。
ラフリは気にしない。
「どこだ?」
普通に対応する。
(……これでいい)
ユナは思う。
(……これくらいなら)
問題ない。
順番を少し変えただけ。
それだけ。
でも――
その“少し”は、
確実に一線を越えていた。
昼休み。
屋上。
いつもの場所。
いつもの時間。
でも今日は、
誰よりも先にそこにいた。
(……ここ)
自分の場所。
そう思ってしまう。
数分後。
ラフリが来る。
「早いな」
「……たまたま」
嘘。
完全に。
でも――
それを隠すことに、もう抵抗がない。
「ラフリ」
「ん?」
「今日、放課後空いてる?」
少しだけ間を置いて聞く。
「……特に予定はない」
(……よかった)
心の奥で、はっきりと安堵する。
「じゃあ、一緒に帰ろ」
自然な提案。
でも――
逃がさない意図がある。
「いいぞ」
ラフリはあっさり答える。
それだけで、
胸の奥が満たされる。
午後。
授業。
でも、集中できない。
考えているのは一つだけ。
(……増える前に)
止めないと。
何を?
(……分からない)
でも、
このままじゃダメだと分かる。
放課後。
教室を出る。
「ラフリ」
自然に呼ぶ。
「帰るか」
「ああ」
並んで歩く。
でも今日は、
ほんの少しだけ距離が近い。
無意識に。
自然に。
(……これでいい)
誰にも取られない距離。
安心する距離。
「……ラフリ」
「ん?」
「明日も、一緒に帰れる?」
少しだけ低い声。
「……ああ」
迷いなく答える。
その瞬間、
心がはっきりと満たされる。
夜。
部屋は静か。
ユナは机に向かっている。
でも――
何もしていない。
ただ考えている。
今日のこと。
昨日のこと。
全部。
「……大丈夫」
小さく呟く。
「これは普通」
繰り返す。
でも――
その言葉は、もう自分でも信じていない。
(……取られたくない)
はっきりとした意思。
(……離したくない)
さらに強い感情。
「……私が」
ぽつりとこぼれる。
(……守る)
その言葉は、
ほとんど無意識だった。
でもそれは――
優しさではなく。
確実に、
“侵食”の始まりだった。




