第124話:崩れ始めた均衡と、触れてはいけない感情
人は、失うことを想像した瞬間に、初めて恐怖を知る。
それまではただの“当たり前”だったものが、
急に壊れやすいものへと変わる。
そして――
守りたいと思ったときには、もう遅いことが多い。
気づいた時にはすでに、
その感情は深く根を張っているから。
朝。
空気は静かだった。
曇り空。
少しだけ重い空気。
教室に入る。
視線は自然と隣へ向く。
(……いない)
ラフリの席が空いている。
「……遅い?」
小さく呟く。
時計を見る。
まだ遅刻ではない。
でも――
(……なんで)
それだけで、胸がざわつく。
数分後。
ガラッ。
扉が開く。
ラフリが入ってくる。
「……おはよう」
「……おはよう」
ほんの少しだけ強くなる声。
安心したから。
自分でも分かる。
「少し遅かったな」
ナカムラが言う。
「ああ、ちょっとな」
短い会話。
それだけ。
(……よかった)
胸の奥が、ほどける。
たったそれだけで。
授業が始まる。
ラフリはいつも通り。
ノートを取り、考え、書く。
(……普通)
昨日と同じ。
それだけで安心する。
でも――
その安心は、長くは続かなかった。
休み時間。
「ラフリ!」
女子の声。
クラスの別の生徒。
今まであまり関わりのなかった子。
「ちょっといい?」
「……何だ?」
「この問題、教えてほしくて」
(……え)
一瞬、思考が止まる。
ラフリは普通に答える。
「どこだ?」
自然に、何も疑問を持たずに。
その光景を、
ユナは静かに見ていた。
(……なんで)
胸の奥が、強く締め付けられる。
ただのクラスメイト。
ただの質問。
それだけのはずなのに。
(……嫌)
はっきりとした拒絶。
でも――
体は動かない。
言葉も出ない。
ラフリが説明する。
その子が笑う。
「ありがとう!」
明るい声。
自然な距離。
(……近い)
それだけで、
呼吸が少し浅くなる。
「……ユナ」
ミサキが小さく呼ぶ。
「なに」
声は平静。
でも――
指先が、少しだけ強く握られている。
「分かりやすいね」
ミサキが言う。
「……何が」
「今の状況」
ユナは答えない。
答えられない。
(……違う)
これは違う。
ただの勉強。
ただの会話。
でも。
(……嫌だ)
その感情だけは、消えない。
昼休み。
屋上。
いつもの場所。
ラフリの隣に座る。
いつも通り。
でも――
今日は、少しだけ距離が近い。
「ラフリ」
「ん?」
「これ」
弁当を差し出す。
「……ありがとう」
受け取る。
いつも通り。
でも――
今日は違う。
「さっきの人」
ユナが言う。
何気ない声で。
「……誰だ?」
ラフリが首を傾げる。
「……さっき、話してた人」
「……ああ」
少し思い出す。
「どうした」
「別に」
即答。
でも。
「……よく話すの?」
自然な質問の形。
でも中身は違う。
「いや、初めてだと思う」
ラフリは正直に答える。
(……初めて)
その言葉に、
ほんの少しだけ安心する。
でも同時に――
(……これから増える?)
新しい不安が生まれる。
「……そっか」
それだけ言う。
それ以上は聞かない。
でも。
(……なんで聞いたの)
自分でも分かっている。
「……おかしい」
小さく呟く。
「何が?」
ラフリが聞く。
「……なんでもない」
すぐに誤魔化す。
午後。
授業。
静かな時間。
でも――
ユナの中は静かじゃない。
思い出す。
さっきの光景。
笑顔。
距離。
声。
(……嫌だ)
繰り返す感情。
(……取られるみたい)
その言葉が浮かんだ瞬間、
ユナは息を止めた。
(……違う)
否定する。
すぐに。
でも――
その言葉は、消えなかった。
放課後。
「じゃあ帰るか」
ラフリが言う。
「……うん」
並ぶ。
いつも通り。
でも今日は、
少しだけ歩幅が合わない。
「……ラフリ」
「ん?」
「もしさ」
またその前置き。
「……誰かに取られたら」
声が少しだけ低い。
「どうする?」
ラフリは少し考える。
「……取られるって何だ」
「……分からないならいい」
ユナは視線を逸らす。
それ以上は言わない。
言えない。
夜。
部屋は静か。
ユナはベッドに座っている。
膝を抱えて。
「……おかしい」
はっきりと分かる。
これはもう、
ただの違和感じゃない。
「……なんで」
呼吸が少しだけ乱れる。
思い出す。
今日の全部。
「……嫌だ」
もう隠せない。
(……取られたくない)
その感情は、
はっきりと形を持っていた。
「……私の」
小さく、震える声で。
言いかけて、止まる。
まだ言えない。
まだ認めない。
でも――
その境界線は、もうすぐ壊れる。
均衡は崩れた。
あとは――
どこまで落ちるかだけだった。




