第121話:気づきかけた感情と、認めたくない気持ち
人は、自分の感情に気づいた瞬間、
それを“理解する”か、“否定する”かを選ぶ。
どちらを選んでも、結果は変わらないことが多い。
それでも――
認めることと、認めないことの間には、
大きな違いがある。
そして多くの場合、人は先に“否定”を選ぶ。
朝。
教室の空気は、いつもと同じ。
なのに――
ユナにとっては、少しだけ違っていた。
(……来てる)
教室に入った瞬間、
一番最初に視線が向いた先。
そこにはすでに座っているラフリの姿。
昨日とは逆。
それだけなのに――
胸の奥が、わずかに揺れる。
「おはよう」
先に声をかけたのは、ラフリだった。
「……おはよう」
ユナは少しだけ驚いたように返す。
ほんの小さな変化。
でも、それだけで空気が変わる。
ラフリはノートを広げていた。
いつも通りの姿。
昨日のような疲れた様子はない。
「昨日、ちゃんと寝たの?」
ユナが聞く。
「ああ」
短い返事。
でも――
それだけで十分だった。
(……よかった)
無意識の安堵。
自分でも気づかないほど自然に、
肩の力が抜ける。
授業が始まる。
今日は、いつも通り。
ラフリはノートを取り、
時々ペンを止めて考える。
その横で――
ユナは、ほんの少しだけ視線を向けていた。
昨日と違う。
それだけで――
安心している自分がいる。
(……なんで)
ふと、思う。
どうして、こんなことで。
どうして――
こんなにも、気になるのか。
休み時間。
「ラフリ〜今日こそ数学教えて!」
アオイが机に乗り出す。
「昨日もやっただろ」
「理解してないからもう一回!」
「……ナカムラに聞け」
「ナカムラは理論すぎて無理!」
「ひどくない?」
ナカムラが苦笑する。
いつも通りの光景。
その中で――
「……ラフリ」
ユナが小さく呼ぶ。
「ん?」
「この問題、少しだけ見てほしい」
「どこだ?」
自然な流れ。
ラフリが身を寄せる。
距離が近い。
でも――
今日は、それが怖くなかった。
「ここ」
「……ああ、これはな」
説明が始まる。
淡々と。
分かりやすく。
ユナは頷きながら聞く。
だが――
意識は、少しだけ違うところにあった。
(……近い)
昨日と同じ距離。
でも今日は違う。
安心する。
落ち着く。
「分かったか?」
「……うん」
少し遅れて答える。
本当に分かっている。
でも――
それ以上に、別の何かが残っていた。
昼休み。
教室を出る前に、ユナが言う。
「ラフリ」
「ん?」
「……今日も、屋上行く?」
少しだけ、間があった。
昨日のことがあるから。
断られる可能性を、考えている。
「別にいいぞ」
その一言で、
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
屋上。
風は穏やか。
空は高い。
昨日と同じ場所。
でも――
空気は少し違う。
「……昨日は、来なかったね」
ユナがぽつりと言う。
責めるような声ではない。
ただの確認。
「少し疲れてた」
「……そっか」
それだけで納得する。
それ以上は聞かない。
沈黙。
風の音だけが流れる。
その中で――
ユナは小さく息を吸った。
「……ねえ」
「なんだ?」
「もしさ」
また、その言い方。
曖昧な前置き。
「……誰かがいなくなったら」
ラフリの手が止まる。
「どうする?」
昨日と似ている。
でも、少しだけ違う。
「……急だな」
「うん」
「……考えたことない」
正直な答え。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……私は」
ユナが、言葉を続ける。
でも――
止まる。
喉の奥で、止まる。
(……言えない)
まだ。
ここで言うべきじゃない。
そう、本能が拒む。
「……なんでもない」
結局、それだけ。
ラフリは特に気にしない。
「そうか」
それで終わる。
午後。
授業。
ノート。
いつも通りの時間。
でも――
ユナの中では、何かが確実に変わっていた。
(……おかしい)
分かっている。
これは普通じゃない。
ただ一緒にいるだけ。
それだけのはずなのに。
どうして――
こんなにも影響されるのか。
放課後。
「じゃあ、また明日」
ナカムラが手を振る。
「ばいばーい!」
アオイも元気よく帰っていく。
ミサキも軽く会釈して去る。
残るのは――
二人。
「帰るか」
ラフリが言う。
「……うん」
並んで歩く。
自然に。
当たり前のように。
夕焼け。
長く伸びる影。
その距離は、昨日より少しだけ近い。
「……ラフリ」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「……普通だな」
また、その言葉。
でも――
ユナは少しだけ微笑む。
「……そっか」
今度は、その言葉が嫌じゃなかった。
その夜。
ユナは机に向かっていた。
ノートは開いている。
ペンも持っている。
でも――
何も進まない。
(……分かってる)
原因は、はっきりしている。
今日のこと。
昨日のこと。
そして――
彼のこと。
「……違う」
小さく呟く。
否定する。
「これは、違う」
ただ一緒にいるだけ。
ただ話しているだけ。
それだけで、こんな感情になるはずがない。
「……ありえない」
そう言いながらも、
胸の奥は、正直だった。
(……でも)
思い出す。
隣にいる時間。
声。
距離。
視線。
「……やだ」
ぽつりとこぼれる。
気づいてしまったからこそ、
認めたくない。
「……まだ」
小さく、震える声で。
「……まだ、違う」
それは否定。
でも同時に――
“時間の問題”でもあった。
感情は、もう芽生えている。
あとは――
それを認めるだけだった。




