第120話:少しだけ遠い背中と、触れられない距離
距離は、近づくよりも離れる方が分かりやすい。
ほんの少しの違いでも、
それははっきりと心に残る。
昨日まで当たり前だったものが、
急に手の届かない場所に行ってしまったような感覚。
その理由が分からないほど、
人は不安になる。
朝。
教室の空気は、いつも通りだった。
ざわめき。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
その中で――
ユナは静かに席に座っていた。
(……遅い)
視線が、何度も入口へ向く。
時計を見る。
まだ遅刻ではない。
でも――
(いつもは、もう来てるのに)
理由は分からない。
ただ、それだけで胸の奥が少しざわついた。
ガラッ。
扉が開く。
ラフリが入ってくる。
「……」
その姿を見た瞬間、
ユナの肩の力が、わずかに抜けた。
「おはよう」
いつも通りの声。
「……おはよう」
返す声は、ほんの少しだけ遅れる。
ラフリは席に座る。
だが――
すぐに机に突っ伏した。
「……眠い」
小さく呟く。
「寝不足?」
ユナが聞く。
「まあ、少し」
それだけ。
それ以上は何も言わない。
授業が始まる。
だが――
ラフリはほとんど顔を上げない。
ノートも、いつもより少ない。
反応も薄い。
「……」
ユナは何度か声をかけようとして――やめた。
タイミングが分からない。
距離が、測れない。
休み時間。
「ラフリ、大丈夫?」
アオイが心配そうに聞く。
「平気」
短い返事。
「全然平気そうじゃないんだけど!?」
「寝不足なだけだ」
「ちゃんと寝なよ〜!」
いつものやり取り。
でも――
どこか、いつもと違う。
「……ラフリ」
ユナが小さく呼ぶ。
「ん?」
顔は上げないまま。
「今日……お昼は?」
「今日はいい」
即答だった。
間もなく。
迷いもなく。
「……そっか」
その一言だけ。
それ以上は何も言わない。
言えなかった。
昼休み。
教室はいつもより静かに感じた。
ラフリの姿はない。
屋上にもいない。
中庭にもいない。
(……どこにいるの)
理由もなく、探している自分に気づく。
でも――
足は止まらない。
廊下の奥。
人気のない階段。
その途中で――
見つけた。
ラフリは壁にもたれかかって、目を閉じていた。
眠っているのか、ただ休んでいるのか分からない。
「……ラフリ」
小さく呼ぶ。
反応はない。
近づく。
静かに。
一歩ずつ。
(……近い)
でも、止まらない。
「……大丈夫?」
今度は、少しだけはっきりと。
ラフリがゆっくりと目を開ける。
「……ユナか」
それだけ。
名前を呼ばれただけなのに――
胸が、わずかに揺れる。
「こんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
「少し休んでただけだ」
「……屋上じゃないんだ」
「人が多いと落ち着かない」
その言葉に、
ユナは一瞬だけ言葉を失う。
(……昨日は)
一緒にいた。
同じ場所で。
同じ時間を過ごした。
それなのに――
今日は、違う。
「……そっか」
それだけ言う。
それ以上は踏み込まない。
踏み込めない。
「先に戻る」
ラフリが立ち上がる。
「……うん」
ユナは小さく頷く。
ラフリはそのまま通り過ぎる。
何も言わずに。
何も残さずに。
その背中が――
少しだけ、遠く感じた。
放課後。
教室はいつも通りの空気に戻っていた。
「ラフリ、帰る?」
ナカムラが声をかける。
「ああ」
「一緒に行く?」
「今日はいい」
また、短い返事。
それだけで会話は終わる。
「……」
ユナは何も言わない。
言えない。
言葉が見つからない。
ラフリは先に教室を出た。
振り返ることもなく。
夕焼けの中。
一人で歩く。
その足取りは、いつもと変わらないはずなのに――
どこか、重い。
その夜。
ユナはベッドの上で目を開けていた。
眠れない。
理由は分かっている。
でも、認めたくない。
「……少しだけ」
小さく呟く。
「少しだけなのに」
胸の奥が締め付けられる。
たったそれだけの距離。
たったそれだけの違い。
それなのに――
どうしてこんなにも、不安になるのか。
「……なんで」
答えは出ない。
ただ一つだけ分かることがある。
昨日まで当たり前だったものが、
今日、少しだけ遠くなった。
それだけで――
こんなにも苦しい。
ユナはゆっくりと目を閉じる。
その唇から、かすかに言葉がこぼれる。
「……やだ」
小さく。
震えるように。
「……離れないで」
その願いは、まだ誰にも届かない。
けれど確実に――
その形は、変わり始めていた。




