不協和音
情勢は刻々と変化する。
先日まで正しかったことが、今日も変わらず通用するという保証はない。
どのような意見にも誤謬の余地はある。吟味し審議を重ねたとしても、解釈次第では如何様にも覆る。
だが、それでも、曲げてはならぬものはあるはずだ。
前夜魔騎士総監にして特務総長、ハウザー=ベリアールは軍団長執務室の前に立つ。
重厚な扉の両横には憲兵が二体控えるが、突然の訪問に彼等が誰何の声を上げることはない。
憲兵隊も騎士団と志を同じくしている。無言の目礼に彼等からの期待を感じ、ハウザーはあえてノックもせずに観音式の扉を押し開けた。
「失礼する」
聞こえてきたのは、喧々諤々とした議論の熱狂。
床には無数の書類が散乱し、複数台のパソコンを同時並行的に操作している秘書官たちが、山と積まれたファイルと必死になって格闘している。
ハウザーは目を細める。統制も精練さもないこのような場所が、司令室とは情けない。指揮官とは大局を平静に見つめ、悠然と構えておくもの。ヒステリーをむき出しにして部下を睨み、八つ当たりのように書類を宙にばら撒くような態度は、とてもではないが褒められたものではない。
「失礼する」
荒げた語気に、ようやく手近にいた秘書官の顔が上がる。
誰なのかを確認し、そして凍り付いた。
「特務総長様……」
呟きは瞬く間に拡散し、凍結は伝播する。
急速に低下する執務室の熱気。誰もが自分を見つめ、手を止める。
その中で以前と変わらぬ顔でいるのは、巨大な液晶パネルの前で仁王立ちする軍服姿の白銀髪の女が一体だけ。
「……おまえに招集命令は掛かっていないはずだぞ。何用だ?」
王の代理として夜魔全体を統括するべく産み落とされた存在からの言葉に、ハウザーは淡々と答える。
「軍団長、貴様に話がある。提出した陳述に対する回答を貰いたい。早急に」
奥歯を噛み締めるような表情だけで、彼女の考えていることがすぐにわかった。
またそれか、とでも言いたいのだろう。
「……しばし休憩とする。再開は五分……いや、七分後だ。解散」
秘書官や戦略分析官たちも、陳述の内容については承知している。
だから、皆、何も言わず素直に部屋を後にする。
ふうと大きなため息を一つ吐き、軍団長、ジゼル=ベリアールは執務机に向かう。
そして椅子にふかぶかと身を横たえると、ハウザーに向かって呟いた。
「……二日だ。猶予は、残り四十八時間。すべてがギリギリだ。断片の調整も、神体の神経接続も、拡張魔術式の敷設工事も滞りなく進行中とはいえ、それでも完了するのは期日間際。他にもやるべきことは山のようにある。一瞬一秒さえ惜しいほどだ。こうして貴様と会話している瞬間さえもな」
「ならば、尚の事、無駄口を叩いている暇などないだろう。我々の要求は変わらない。あのような手段を用いるなど言語道断。王の名を汚すこと、それすなわち王への背信。考え直すのであれば今しかない」
ジゼルがじろりとハウザーを睨む。
「背信か。私は王の勝利を望んでいるだけだ。その確率をわずかにでも上昇させることのどこが罪になる?」
「王の意思に反している。王は七凶聖の思惑に乗りながら、それを堂々と打破することを望んでいる。人の身でありながら、不遜にも夜魔の王を使役しようとした罪。それは封印廟からの解放という借りを清算して尚、贖えるものではない。そうした驕りを正すには力で屈服させるしかない。そうすることで、ようやく夜魔は真に復活する。王は、そのようにお考えだ」
「承知している。夜魔を愚弄した者に死を与えることに異論はない。だが、残念ながら夜魔は無敵ではない。我らの体内に刻まれた記憶素子が、その事実を何よりも雄弁に告げている……」
ジゼルは嘆息する。そして、振り絞るような声で告げる。
「王は、侮っていたのだ。英国中枢を蚕食し、欧州を席捲し、繁栄の極みと謳歌していた。忌まわしい太陽さえ堕とせると豪語していた。魔導工学の基礎すら知らぬ辺境の蛮族など何する者ぞと見縊っていた。そして、それ以上に、極東魔術師に対する好奇……、いや、注意と理解が足りなかった。王は、あまりにも高慢であり無垢だったのだ」
その不都合な検証を、ハウザーは否定しない。
なぜならば、王自身がそれを真実だと認めているからだ。
ハウザーら上級眷属を創生するにあたり、王は宣った。
敗北し、標本となった雪辱は必ず晴らす。極東全ての魔術師を一人残らず蹂躙する。そして、夜魔としての栄光を再び取り戻す、と。
「王は、もはや慢心などしていない。縦深伸張に領域を築き、数千を超す眷属で防備を固めた。有用ならばと人間の開発した兵器を躊躇せず導入し、あらゆる手段で戦力増強に努めた。結果、いきさつはどうであれ、王は次元破断の断片の一つを完全に掌握し、その権能を抽出複製するにまで至っている」
「逆三日月の大鎌か」
ハウザーは片手を翳し、掌に鎌の穂先を生み出す。
大鎌の刃に揺らめく波紋をどこか遠い目で見遣り、ジゼルが呟く。
「それは所謂、劣化コピー。神威倶化にどうにか成功したレプリカに過ぎないが、それでも断片としての機能は再現されている。そして侵入者との交戦記録から、実用に耐え得ることは立証済み。とはいえ、それを操るために製造された特別仕様の眷属――先行試作体六体からなる特務騎士団のうち、既に五体が破壊された。生き残りは、もはや貴様一人だけとなってしまったな、ハウザー」
感慨深げなジゼルの哀愁を振り払うように、ハウザーは断固たる口調で告げる。
「戦場で散ることは武人の華だ。それに、滅びることも使命の一つ。我らはデータ採取の実験体であることを誇りに思っている。王が座する【神体】を、より強固で優れたものとするための礎となれるのだからな」
ハウザーは大鎌の先端を、ジゼルの眼前へと突き付ける。
ジゼルは動かない。静かにハウザーの言葉を待っている。
「……神体の建造が完了すれば、王に断てぬものはなくなるだろう。地層も岩盤も、この星そのものを断ち切ることさえ可能かもしれん」
「そうだな」
「そして【盾】だ。元々は適正者不在により頓挫していた計画。それが侵入者のおかげで可能となった。盾が手に入れば、王は夜魔の脆弱性を克服することになる。断片、神体、盾……。この三つを備えた王に敵はない。夜魔は再び恐るべき種族として復権を果たすことになるだろう」
「そうだな。それで、何が言いたい?」
「必要ないだろう。あのようなものに頼らずとも、王は負けはしない」
「どのようなことにも絶対はない。万が一の可能性があるならば、それを億が一にまで下げる。赫船慈榮はそのために有用な道具である。以上が私の結論だ」
ハウザーがジゼルに問い掛ける。
「一貫して変わらず、か?」
ジゼルが答える。
「ああ、その通り。以前と同じく、変わらず、だ」
ぶつかり合う視線。
互いに怯むものもなく、退く道理もない。
ハウザーが、口を開く。
「急遽の変更であったはずなのに、盾の実装が間に合うことは技術総監が保証しているそうだな?」
「彼らの奮闘の賜物だ。賞賛に値する」
「では、なぜ期日間際になっても王は依然として眠り続けている? 神体との調整にてこずっていると聞いているが?」
「万事が万事、うまくいくわけではない。王の身に害が及んではならない。それゆえに慎重を期しているのだろう。期日までには必ず間に合う」
「噂がある。王が我らの前に姿を現さぬのは、軍団長が代行権限を手放すのを惜しみ、技術総監と共謀して王を昏睡下に置いているからなのだ、と」
「根も葉もない。先も言った通り、調整には細心の注意を払わねばならない。断片という未知の神秘を扱うのだ。わずかな歯車の狂い一つで何が起こるか想像もつかん。そうである以上、調理に失敗は許されないのだ」
「では、それをいいことに王の意思を無視する貴様は正しいのか。我らは王のために創造されたのではないのか」
「私は王を裏切ってなどいない」
「ならば正道に立ち返れ」
「正道とは? 私の役割は統括指揮。その根底にあるのは、王へと勝利を捧げる献身のみだ。私は王を勝たせる。そのためならば、いかなる手段も模索する。それこそが私の正道だ」
一理ある。勝利こそ至上、そのためならば何をしても良いという軍団長の発言は合理性に富み、人間であれば容易に受け入れられるものなのかもしれない。
だが、夜魔の上級眷属―ー忠義心篤い騎士たちを率いた身として、ハウザーは告げなければならない。
「ジゼル、騎士団内に広がる亀裂をこれ以上無視はできない。もう抑えきれないぞ」
「………」
ジゼルもわかっている。
だから、無言の対峙は続いてしまう。
七分間の休憩終了まで、あと少し。しかし、誰も執務室に入ってこようとはしない。
いや、違った。ばんと不躾な大きな音を立てて、突如として観音扉が開かれた。
「閣下、緊急電文です……‼ 至急、お読みください……‼」
そこには、ひどく慌てた様子の執務室付武官が立っていた。呼吸は上擦り、髪は乱れ、いつもの慎ましさが嘘のようだ。
手には電信文らしき紙が握られている。
「よこせ」
催促するジゼルの手に、電信文が渡される。
ちらりとハウザーは紙に視線を投げたが、暗号文らしく意味不明な数字とアルファベットの羅列があるだけで、その内容を判別することはできなかった。
ジゼルは電信文を一読すると、目を瞑った。そして、そのまま黙り込む。
再び瞼を開けた時、彼女の瞳は綺麗に澄み切っていた。
「そういえば、技術総監があの女魔術師の追加検診をしたいと言っていたな……。ハウザー、急で悪いが、頼まれてくれ。重要器物特別警護官として、直ちにあの娘を技術部研究区画へと連行せよ」
ハウザーは迷い、しかし、問い質す。
「言いたいことは、それだけか……?」
「……ああ、それだけだ」
「わかった……」
閉まる扉の隙間から見えたのは、椅子に腰かけたままこちらに背を向けるジゼルの後ろ姿。
もはや話し合う余地がないことに暗澹たる想いを抱きながら、ハウザーは執務室を後にした。




