エピローグ
その夜、本邸の奥座敷にて、騏堂成叡は職務に精励していた。
「………」
眼前の文机に載せられた、一枚の和紙。
成叡は何の感情も籠らぬ冷然さで和紙に綴られた文を一瞥すると、硯に溜まった墨に筆をつけ、さらさらと何事かを書きつける。
「……二か月後、また顔を出せ。息子の件だが、財務次官補に推しておく」
「あ、有難うございます! 今後ともよしなに……!」
成叡が差し出した和紙を、男は這い蹲るようにして受け取る。
その様子を眺めながら、成叡は男に続く列を見遣る。
五十畳を優に超す、執務のための大広間。そこには国家戦略産業の会長に大手証券商社の筆頭株主、銀行頭取に政党組織の幹部……。いずれも剣爛たる肩書を背負う有力者が、礼儀正しく畏まって控えている。
「次の者」
「はい……!」
成叡に呼ばれ、ようやく列の先頭へと辿り着いた初老の男が弾かれたように声を張り上げる。
「お目通り叶いまして、恐悦至極に存じます。騏堂様におかれましては……」
「無駄話は不要だ。出せ」
「はっ……」
震える手で渡された和紙の内容を検め、成叡は軽く鼻を鳴らす。
「贈収賄の嫌疑、そして議員宿舎での不倫騒動の鎮静化か……。どちらも身から出た錆だな」
「申し開きもありません。猛省しております……!」
暫しの沈黙の後、成叡は墨に濡れた筆先で何事かを書き込む。
「生業を果たせ。国益を齎し続けろ。それが出来ねば……、わかっているな?」
「肝に銘じます! 変わらぬ温情に感謝を……!」
額を畳に擦りつける男へと、成叡は投げ捨てるように書面を返却する。
「次の者……」
その時だった。
廊下をどたどたと走り回る足音に、成叡は微かに表情を曇らせる。
「華碕様、いけません。騏堂様は現在執務中です。どうかご遠慮下さりますよう……」
「ああ、なんだと? うるせえなぁ! この俺が呑みに誘ってんだぞ! いいから、そこをどけ! どけってんだ!」
襖越しにも聞こえる、従者と酔っ払いの押し問答。
硯に筆を置き、成叡は小さく溜息を漏らす。
「構わん。入れてやれ。今宵はここまでとする」
突然の中断に、長い列からざわめきが起こる。
汚職議員同様に、決死の嘆願を抱えてやってきた者は多い。
だが、異論を唱えることなどできようはずがない。もしそれで騏堂の不興を買うようなことにでもなれば、すべてが御破算となってしまうからだ。
「ほれほれ、そういうことだ。帰った、帰った」
勢い良く襖を開けてずかずかと入って来たアロハ姿の老人に追い出させる格好で、参列者たちは渋々ながらに執務室を後にする。
「悪かったな。仕事の邪魔をしちまったみたいでよ」
「そんなこと露程にも思っていない癖に、よく言う」
酒精を漂わせた老人は、手にした酒瓶を掲げて呵々と笑った。
「まあ、そう言うな。今夜はどうにも人恋しくてよ。相手を見繕おうにも、こんな時に限って綺麗所が見当たらない。しょうがないからおまえで我慢してやるよ」
「手酌に飽いたくらいでわざわざ来た、と? そうではあるまい」
一本数十万円はくだらない高級シャンパンを不味そうに喇叭呑みした老人が、まったく酔っていない瞳で成叡を睨む。
「俺はよ、別に仕事をするのが嫌ってわけじゃねえんだ。印呪を彫ることは息を吸うも同然。下手に勿体ぶって腐らせるつもりもねぇ。あのウサギ女にしたって、良いものを彫れたって充足感はあるし、そこに不満はねえよ。だがな、気持ち悪さはある。今更だが、どうして俺にあんなことをさせたか知りてえな」
老人の性格を熟知している成叡は、溜息を吐く。
「酔い任せではなく、熟慮の末の行動か……。客は掃ったが、誰が聴いているとも限らん」
「そうか。なら、これで問題ないな」
老人が懐から出した鍼を畳の真ん中へと突き立てる。
仕方ない。成叡は脚を崩すと、老人にも座るよう手で促した。
「簡単な話だ。あの外法師を雇うにあたり、奴は対価として火津摩柊の身柄を望んだ。私はそれを拒否し、代わりに火津摩を自在に操る力を与えることで兎塚との契約を締結させた。それだけだ……」
どかっと豪快に畳に腰を落とした老人が首を捻る。
「どういうことだ? 外法師が六紡閣の総帥に取り入ろうとするのは理解できる。だが、どうして柊の嬢ちゃんなんかを欲しがる?」
「さてな。奴は一目惚れとか運命の巡り合わせとかどうのこうの騒いでいたが……。一応、兎塚の前歴を攫いはしたが、何も出なかった。真っ白だ」
「経歴不肖の外法師ね……。おまえの情報網でもわからなかったとなると、かなり怪しいな。いいのか? そんな得体の知れない女にお気に入りを売り渡しちまって」
「譲渡はしていない。共同管理だ。そして、使用優先権は私にある」
「だけどよ、おまえが現世から動けない以上、嬢ちゃんを生かすも殺すもあっち次第じゃねえか。火津摩の嬢ちゃん、当分は霧郡に張り付かせるんだろ? 刑部からの要請もあったしな」
老人の詰問に、成叡は微かに眉を吊り上げる。
「火津摩が気になるか?」
「面食いだからな。別嬪さんは贔屓にすることにしてんだよ。それに、おまえさんの腹の底もわからねえ。傍に置き続けていたのは、道楽や酔狂じゃねえだろう? なのに突然、死んでも構わないと突き放しやがって。早蕨の塔の無尽胎蔵にしたって、七凶聖が出張っていたことを抜きにしても、嬢ちゃんが捌くには荷が勝ち過ぎていたはず。なのに、どうして死地に放り込んだ?」
「………」
成叡は溜息を漏らす。表情こそ変わらないが、その仕草は困憊した老猫のそれだった。
「保険だ。いざという時のためのな……。あれは、簡単にくたばる女ではない……。私が言えるのはそれだけだ」
「答えになっているようでなっていないな。まあ、いい。いつもの事だ。つまりは嬢ちゃんが塔で死ぬはずがないと踏んでいたわけだな。で、それを踏まえた上で兎塚にくれてやったと」
「……奴の情報は無視できなかった。特に七凶聖の動向に関しては」
「四饗公家筆頭、鳳來峰を暗殺した謎のテロリスト集団か。次元破断が襲来するや否や、真っ先に断片確保に向かったはずのおまえが物の見事に出し抜かれた。多太羅が死んだのは久慈原なんかのせいじゃねぇな。おまえの計算違いに依るものだ。だろう?」
内情を知るだけに、老人の指摘は容赦ない。
痛烈な批判に、成叡は瞑目する。
「……そうだな。我が身の不明を恥じるばかりだ」
暫しの沈黙の後、成叡は瞼を開く。
老人が酒瓶を差し出して来る。成叡は黙って受け取り、片膝付いて立ち上がる。
「騏堂。俺はよぉ、自他共に認める天才印呪師だが、それでも次元破断の断片の権能を借用し、人体に転用する印呪なんてものは、天地がひっくり返ったって出来っこねぇ。だがな、詩貴静蘭はそれをやってのけたって言うぜ。しかも、奴もおまえのように無尽胎蔵の消滅を企図していた。こいつは、いったい、どういうことだ?」
成叡は静かに嘆息する。
「私にも、わからないことはある。少なくとも、世界の終焉という最悪の事態は回避された。わかっているのはそれだけだ……」
畳の海を渡り、縁台へと通じる襖を開ける。
密室の解除と同時に、華碕の結界が切れる。
話はこれで終わりのはず。
だが、尚も印呪師は問い掛けて来た。
「なあ、俺達は本当にこのままでいいのか?」
枯山水の見事な庭園を、燦々たる月光が照らしている。
酒瓶の中身を死者へと手向けながら、騏堂成叡は静かに答える。
沈痛。鎮魂。そんな感傷を一笑に伏すだけの、黒々と滾る狂熱を瞳の奥底に湛えながら。
「ああ、そうだ。それ以外に在り得ない。世界を救うのは我々だ」




